<永井安奈>
時間としては、一也らが悲鳴を聞いたその10分ほど前。
北の集落の住宅街を、永井安奈は慎重な足取りで歩いていた。額には緊張感から滲む汗。
周囲には人っ子一人見当たらないが、これはプログラムだ。いつ何どき襲われるか分からない。
教会に立て篭もったほかの誰よりも落ち着いていた安奈だが、屋外で感じる恐怖は屋内のそれをはるか上まわっており、さすがの彼女も精神力を削がれ始めていた。
永井安奈。
後ろ髪を自然に肩におろし、前髪を左から右に流しピンでとめた髪型。卵型のつるんとした顔には、はっきりとした二重の瞳と、やや厚い唇がのっている。
目立つほどの美人ではないが、決して十人並みでもない。
成績優秀な優等生で、教師の受けはよく、クラスメイトからもただの大人しい女の子として見られていたが、その実態は違った。
万引き、窃盗は慣れたものだ。
重原早苗や筒井まゆみのほか、他校の女子生徒を斡旋する、売春組織の元締めのようなこともしている。
しかし、そうする一方で、慎重だった。対面を気にした。自分の身体を大事にした。身体を壊すようなこと、たとえばクスリなんてものには足のつめ先ほども向けないし、飲酒はともかくとして、喫煙はしたことすらない。
金を盗むときは、慎重に慎重を期す。
ピッキング等の技術も磨いているし、一般家庭のへそくりから数枚札を抜く程度。
金を盗まれたことに気がついていない家も多いだろうし、たとえ気がついたとしても、小額だと「これぐらいなら……」と表ざたにもなりにくい。
売春も、自身は身体を売らず、専ら紹介に徹した。
「評判を気にするなら、悪い事しなきゃ、いいのに」「面倒くさいことやってるねぇ」何事もシンプルを旨とする筒井まゆみ(安東和雄が殺害)が、呆れ顔でよく言っていたが、これに安奈は「それが、アタシだよ」と笑って返したものだ。
金は欲しいけど、汗水流して働くのは嫌だ。
それが、アタシ。
周りから変な目で見られるのは嫌だ。大きな悪事は肌にあわない。
これも、アタシ。
アタシはアタシの身の丈にあったことをやってるだけ、思うままに生きてるだけよ、と。
この安奈の哲学には、彼女の父親の存在が関係してくる。
安奈の父親は、神戸の繁華街で骨董品屋を営んでいた。
子は親の鏡、親は子の鏡とでもいうべきか、まがい物を口八方で素人に売りつける、お世辞にも良心的とはいえない店主だった。
その他、細々と小さな悪事を繰り返していたのだが、大きな山に関わったことで足がつき、逮捕された。
そして、未だに檻の中だ。
このことは新聞記事にならなかったこともあって、幸い学校ではほとんど知られていないようだ。
父親が捕まったことを、安奈はこう思っている。
「あのタヌキ、自分の分を見失ったんだな」
彼は身の程を知っており、分をわきまえていたはずだった。
だけど、何かのタイミングで己を大きく見てしまい、失敗した。
安奈は自分は決してそうならないと心に決めていた。
母親は離婚する気はないらしい。
いや、「今度こそ」と離婚届を持って父親に面会に行くのだが、そのたびに思い直しているようだ。おそらく、父親にのらりくらりをかわされているのだろう。
父親は口がうまく、思うとおりに人をコントロールすることがうまかった。
母親も連れ添って何年もたつのだから、その辺りのことはよくわかっているだろうに、やっぱり操縦されて帰ってくる。
安奈は、この人の良い母親を心の中で馬鹿にしていた。「世の中には騙す人間と騙される人間がいて、騙される人間は搾取されるだけなのだ」安奈の哲学書にはそう書いてある。
正直なところ、両親が離婚しても安奈にダメージはない。
どの道、あと数年で自立する。
両親とは安奈のペースでたまに会うくらいで十分だ。
駄目な父親ではあったが安奈は彼のことを愛していたし、母親のことも馬鹿にしつつも見放すつもりはなかった。
*
このあたりは近代的な作りの家が多かった。名産名勝の類がない小さな島のはずだが、割合に潤って見える。
疑問と言えば疑問だったが、安奈はあまり気にしていなかった。
そんなことよりも、生き抜くことの方が重要だ。
数百メートル先にある浜を越えてくる潮風が、彼女の髪をなびかせる。
やだな、髪が痛んじゃう。ふっと思った後、さきほどの放送を思い返した。
新たに加わった死亡者リストの中に、自分以外の教会に集まったメンバーの名前が挙がっていた。
みんな、死んだ。みんな、私が手にかけることなく、死んだ。
安奈の口元に、にっと笑みが浮かぶ。
永井安奈の支給武器はブローンニング・ベイビーだった。小型の拳銃で、ポケットサイズだ。
銃を支給武器に得た彼女には、クラスメイトを積極的に殺して回ることは可能だった。
やろうと思えばできたはずだった。
しかし、安奈はその選択をとらなかった。
それは、倫理的にどうというよりも、優勝した後の生活を見据えての行動だ。
精神的に参ってしまい優勝者の社会復帰が遅れるケースがあると聞く。また、病棟から一生出れないケース、自殺してしまうケースも多々あると聞く。
それは、当たり前のことだと彼女は考える。自分だってそうなる可能性は十分にある、と。
だから、安奈は自らの手を汚さない。
もちろん必要とあればやるつもりだったが、自分に言い訳のきくときだけにしようと、安奈は考えていた。
越智柚香を冷静に殺して見せた黒木優子。
彼女は積極的にゲームに乗っているようだ。柚香のことも躊躇なく殺していた。
黒木優子は強い。
「……だけど、あいつはきっと潰れる」
呟く。
彼女は確かに強いが、普通の女の子でもある。人を殺して平気でいられるはずがない。
比べ、安奈は一人のクラスメイトも殺さずに生き残っていた。
ここまでは、思い通り。まさに彼女の戦略通りに、ことは進んでいる。そう、ここまでは。
変らぬ慎重な足取りで角を曲がる。と、それまでは安奈の背中を押すようにふいていた風の向きが変った。今度は前面、彼女の顔をなでるようにふいてくる。
強まる潮の香り。そして……。
彼女の歩みがいったん止まった。眉をぎゅっと寄せ、鼻先をくんっと鳴らす。
潮の香りとともに、何かが匂った。
ふらり、止まっていた安奈の歩みが復活する。
いけない……。
この時点ではその先に何があるのか分かっていなかったが、賢しい彼女の理性は、警告音を発した。その場には行くべきではないと判断した。
しかし、どうしても歩みを止めることが出来なかった。
ふらり、ふらりと、何かに操られたかのようなおぼつかない足取り。
もう一つ角を曲がると、そこには背の低い植え込みで囲まれた児童公園があった。
ジャングルジム、ブランコ、滑り台。小さな島ながら遊具はそろっていた。公園自体は古くからあるようだが、遊具は最近揃えなおしたようだ。錆が少ない。
そして、その中ほどに……、『それら』があった。
ごくり、震える喉に唾液を落としす。
いけない、いけない。
再び発せられる危険信号。しかし、またしても安奈の身体は理性に従わなかった。
すうっと息を呑む。同時に吸い寄せられる視線。
「あ……」
顎先をあげ、一度、ぎゅっと目を瞑った。
このまま目を瞑っていたい。そう思ったが、三度、彼女の身体は理性に逆らった。
食い入るように、食い入るように、両眼は目の前の光景、物質を凝視する。
張り付いてしまった視線を外そうとしても、その先にある物からどうしても目を離せなかった。
まるで瘧を起こしたかのように身体が震え始めた。両手でぎゅっと自身の身体を抱いて震えをとめようとするが、うまくいかない。
地獄。
ありふれた表現だったが、浮かんだのはそんなフレーズだった。
小規模な爆発があったらしい。巻き込まれたのは……数人か。
まず視界に入ってくるのは、爆破で薄く抉られた地面。
乾燥しているのか、もともとそういう土色なのか、とにかく白っぽい色をしている広場の地面に、半径2メートルほどの黒い円が出来ていた。
そして、その周囲に散らばる肉片。腕、手足、衣服の残骸。
爆破の円の近くに、胴体部分がニ遺体分あり、開いた腹から内蔵がこぼれ、肋骨や骨盤、白い骨が見えていた。
また、少し離れた所に、横倒しになった男子生徒の遺体があった。
比較的損傷が軽いが、それでもやはり、皮膚がただれてしまっている。
「う……わ……」
後じさりしたい欲求とは裏腹に、また一歩進む。
一日目の夕方に爆音を聞いた。きっとあれだろう。
進むとともに急激に強まる、肉が焼けた匂い、髪が焼けた匂い、血の匂い、内臓物の匂い、そして……腐敗臭。
すでに腐敗が進んでいるのだ。ブンブンと嫌な羽音を鳴らす蝿がたかり始めていた。
ぽとり、首筋に何か水滴のようなものが落ちてきて、安奈は文字通り飛び上がり、声にならない悲鳴を上げた。
見上げると、緑地帯から枝葉を伸ばした樹木、その枝木に女の首が引っ掛かっていた。
胴体から離れた首。爆破の衝撃で醜くゆがみ、焼け焦げ、それが誰なのかまったく識別できない。髪の長さから女だと判断できるのみだった。
両眼はなく、赤黒い眼窩が安奈を睨みつける。
「ひっ」
短い悲鳴をまず上げる。
そして。
そして、「きゃあぁぁぁ……ああぁぁあああ……ああっ」波打つ悲鳴が、彼女の喉元からこぼれ始めた。そうしている間も、顎先を下げることが出来ず、女の首を凝視したまま。
駄目だ。駄目だ。
繰り返すNG信号。叫んでは駄目だ。危険な誰かを呼び寄せることになる。駄目だ、駄目だ。
「あぁぁぁ……ああぁぁあああ」
しかし、どうしても漏れ落ちる声を止めることが出来ない。
むしろ、そのボリュームは高まっていく。
15歳にして他人をコントロールする術を見につけていた彼女、その哲学に従い自制する術を身につけていた彼女。その安奈にしても、この惨状は耐え切れるものではなかった。
いつしか座り込んでいた。ぼろぼろと涙がこぼれる。なおも閉じることの出来ない両眼を手の平で覆うが、彼女の視線は指先の間を縫う。
と、その視界の端に何かがよぎった。
普段荒れた生活をしていたからだろうか、混迷する思考の中でも、身体は動いた。
ばっと向きなおし、その方向を見ると一人の女子生徒が立っていた。
まだ児童公園の中には入っていない。
距離としては15メートルは離れているだろうか。
……黒木優子だった。ちっと舌を打ち、残念そうな顔をしている。
今度は、黒木優子から目がはなせなかった。
黒木優子。教会で、冷静に越智柚香を殺した女。……敵わないと思った。アタシみたいな小悪党じゃ、とうてい敵わないと思った。だから、直接対決を避け、教会を出た。なのに。なのに……。
叫び声が彼女を呼び寄せたと分かっていたが、受け入れたくなかった。
そばかすだらけの頬、愛嬌のある一重の瞳、丸まった鼻先、ふわふわの赤茶けた髪。
ぎらぎらと強い光を放つ瞳、唇がやけに艶っぽい。
あれ。なんで、だ?
混乱の中にあって、いささか場違いな思考だったが、安奈は優子のことを美しいと思った。そして、同時に怖いと思った。
「永井さん」
優子がこちらに向かって歩いてくる。にこやかな表情。
その右手はポケットの中だ。これが何を指し示すのか、安奈はよく分かっていた。ポケットにはきっと拳銃か刃物が入っている。
本当は密かに距離を詰め、安奈を殺すつもりだったのだろう。
気付かれたので、だまし討ちに作戦変更したのだ。
「来るな!」
ブローニング・Bを彼女に差し向ける。
ぎょっとした表情で優子が立ち止った。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃった?」と柔らかい声をかけてくる。「大丈夫、私はやる気じゃない。だから安心して。ひどいことになってるね……。ね、永井さん、なんで、こうなってるか、あなた知ってるの?」
その声は優しく、そして普段通りだった。
越智柚香を殺すところを目撃している安奈でさえ、中学三年生にしては世間知があり人を見る目もある安奈でさえ、「この子は信用できる?」と判じそうになる。
信じそうになる自分がいる。それが、恐ろしかった。
「近寄るなっ、この人殺し!」
恐怖そのままに罵ると、優子が虚をつかれたような顔をした。
そして、即座にその表情が厳しいものに変る。
「見られた? 重原? ユズ? ……陽菜?」
安奈が見たのは、越智柚香を殺しているところだけだったが、他に重原早苗や尾田陽菜を殺していたことを知り、愕然とする。
越智を殺したときの落ち着きぶりから、他にも誰か殺していると予想はしていたが、まさかそれが仲間の重原早苗だったとは思ってもみなかったのだ。
さらに、優子がその友人である尾田陽菜をも殺していたのは、驚きの事実だった。
ふっと思う。
アタシが積極的にゲームに乗ったとして、早苗を殺せるだろうか? まゆみを殺せるだろうか?
重原早苗、筒井まゆみ。日頃一緒にいた仲間の顔を、安奈は思い浮かべ、軽く首を振った。
殺せるとは思うが、極力自分の手は汚したくない。きっと何らかの搦め手をつかったはずだった。
そして、優子はやはり自分よりも上手だと思った。
飛び散る死体。漂う死臭。
同じもの見ているのに安奈は座り込み、黒木優子は立っている。
それが何よりもの証拠だ。
「あぁぁぁ……ああぁぁぁぁっ……」
混乱の中、安奈の鼻先にふっとかんきつ系の香りが届いた。
……シャンプー?
これが、決定的だった。
教会では身体を清めるために湯を炊いていた。
彼女は越智柚香を殺害した後に、それを使ったのだ。
人を殺した後、同じ建物の中で髪を洗う。信じられないことだった。到底自分ではできない芸当だ。
全身の力が抜け、呆けたようになる。一度目を瞑り、すっと息を呑んだ。何秒か数えてから目を開けたら、優子が至近距離までやってきていた。
安奈には銃がある。争うことはできる。
しかし、きっと敵わないだろうと思った。
手を汚すか汚さないか、それは『覚悟』の差だ。そして、勝つのは、生き残るのは、きっと覚悟を得た者だ。
……それでも一矢は報いたい。
きっと睨みつけ、「……だけど、あんたも終わりだ。普通の生活? そんなの、あんたに待ってやしない」言い放ってやる。
彼女は優勝しても普通の生活を送りたいと言っていた。
でも、そんなものは待っていないと安奈は知っている。
優子は少し気圧されたような顔をしたが、結局はポケットから拳銃を取り出した。
その銃口が火を噴こうとした瞬間、遠くからだだだっと複数の足音がした。
「こっちだよっ」
「ああっ」
「1,2,3……凄い、なにこれ! 表示が多すぎて何人いるのか、何人死んでるのか分からないよっ」
連なる家々の向こうから飛び交う声。
また、別方向からも誰か来ているようだ。
優子の判断は素早かった。踵を返し駆け出す。
その後姿を見つめながら、安奈はぱちぱちと瞬きをした。瞬きごとに、彼女の瞳に失われた光が蘇る。その光は、賢しくしたたかな、彼女本来の光だった。
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