<飯島エリ>
「エリ!」
津山都に呼ばれ、エリははっと我に返った。
「ち、違うっ」
目の前が滲んで見えるのは涙のせいか。頭を振ると長い髪が乱れ、顔にかかる。
「だって、そ、それっ」
都ががくがくと震える手を前に伸ばす。
指先が向いてるのは、カーペット敷きの床に横たわる吾川琴音だ。赤黒く膨張した顔。血走り、かっと見開かれた双眸。だらしなく開いた口元から唾液と舌がこぼれている。
「あ、あがわ?」
琴音の状態を心配したのだろう、越智柚香が駆けよってくる。しかし永井安奈が「危ないっ」その肩を掴み、押しとどめた。
「え、え?」
エリと安奈の顔を見比べ、柚香が息をのむ。
それで何が起きたのか、理解したのだろう。「あ……」彼女は後ずさった。
眼鏡の奥、丸い瞳が恐れ戦いている。
「ち、違う!」
声を張り上げると、切迫感が増した。
まるで、大きく膨らんだ風船のようだ。
ぱんぱんに空気が詰め込まれ、破裂寸前の風船。
「でも、吾川、死んでるじゃないっ」
都の声も大きくなった。
「違うっ!」
つられ、エリの声量も増す。
しっかり者で通っている都だが、その実、精神的な安定を保てるキャパシティは小さい。興奮し我を忘れかけているエリにも、彼女もまた余裕をなくしていることが分かった。
「だって、吾川の首絞めてンのエリじゃないっ」
言われ、手元を見やるとたしかに琴音の首に自身の手がかかっていた。琴音に抵抗され、爪を立てられた傷が生々しく残っている。
はっと息をのみ、手をのける。
彼女の首を絞め続けていたのに、それが意識の外になっていたことに愕然とする。
ただ驚いたことで、少し冷静さを取り戻した。
自分が非常にまずい立場にあることが痛いほどに分かった。
「あ、あのさ」
琴音がまた喘息発作に見舞われていたのだと、せき込みを誰か危険な選手に聞かれないかと不安になったのだと説明しようとする。
しかし、「人殺し!」都に責め立てられ、ここでまたかっとなった。
「てめぇだって、理央を殺したんだろうが!」
「なっ」
まず都が仰け反り、続けて「ええっ」柚香がまじまじと彼女の顔を見る。
「な、何言ってンのよ、私、理央を殺してなんてない!」
「嘘つくなっ」
私物の携帯を取り出し、その画面を見せつける。
そこには、死んだ佐藤理央からの『みやこにころされた』というメールが表示されていた。理央から何度か空メールが届き、そしてこのメールが届いた。
タイミングとしては、全て理央が死んでからだ。
実際に彼女が打ったメールであるはずがないという思考はあった。
死者がメールを打てるはずがない。
ただ、誰がどんな目的でこんな気味の悪いことをするのか、困惑し恐怖していた。
また、何かの手違いで時間差でメールが届いているのではないか? という妄想もあった。
一通一通のメールに追いたてられ、疑念、恐怖、混沌、妄想、焦燥……様々な感情の渦にまかれる。
そして、『みやこにころされた』を最後に電信がなくなり、携帯電話に何も届かなくなった。
ずっとあったものが途切れる。
それはそれで困惑の対象となっており、エリの精神は限界まで追い詰められた。
それでも、それが現実のものではないと判じるだけの冷静さは残っていた。
今、エリの中からそんな理屈は消し飛んでいた。
あるいは、それが逃げ道だったのかもしれない。
津山都を追及することで、吾川琴音を殺害した事実から目をそむけようとしていたのかもしれない。
自身の感情の揺れ動き。
しかしもう、エリは情動を把握することができなかった。
ただ顔面を紅潮させ、「理央を!」怒声をあげ続ける。
「なっ、なにこれ……」
送信者と内容を確認した都が眉を寄せる。
同じく確認した柚香は、意外な名を口にした。
「結城?」
結城美夜が祈祷師のようなことをしていたこと、請われ呪いをかけていたこと、その際『みやこさま』と呼ばれていたことを知っている柚香ならではの発言だった。
彼女の顔から血の気がさっと引いた。
「や、そんなわけ、ないか……。でも、まさか」
結城美夜が佐藤理央を呪い殺したのだろうか、メールは死者からのメッセージでそれすらもまた呪いの一種なのだろうかと、柚香はオカルトめいたことを考えてしまったのだが、事情を知らないエリには当惑しかない。
「結城美夜じゃねぇ、津山、み、や、こだ! その女が理央を殺したんだっ」
唾を飛ばす。
と、このとき、エリは見た。
都と柚香の後ろに隠れるようにして震えていた永井安奈が微かに笑うのを。
一瞬だった。顔を俯き加減にしていた。笑ったといっても、かすかに唇をゆがめる程度だった。しかし、彼女は確かに笑った。
混沌としていた意識の中、新たな疑問が生まれる。
……なぜ、あの子は笑う?
唐突にフラッシュバックする場面。
リビングで、エリの父親が「あれはもう駄目だな」苦々しげにぼやいている。ややあって、視線をエリに向け、「永井の家には気をつけろよ」苛々と煙草に火をつける。
永井安奈の父親は、少し前まで神戸の繁華街で骨董品屋を営んでいた。
真作贋作を取り混ぜているような怪しい店だったが繁盛していたようだ。まぁ結局足が付き、今は牢の中だ。
エリの祖父は骨董品好きで、永井安奈の父親に相当の金を流している。
捕縛を機会に骨董品の再鑑定を勧めているのだが、祖父本人が安奈の父親を信頼しきっており、忠告に耳を貸そうとしない。
それで、「あれはもう駄目だな」という台詞になったのだ。
ただ、永井に気をつけろと言われても、エリには関係なく思えた。
エリが骨董品を買うことはないし、娘の安奈は害のない優等生だ。自分には関係ないと、右から左に聞き流していた。
戸惑う。
なぜ今頃になって父親の言葉を思い出したのか。
ここで、「だって、プログラムなんだよ?「私たちだっていつかは」「死んじゃいたい」永井安奈の台詞が頭の中でこだました。
ぞくり、何か冷たいものが背筋を駆け上がっていく。
胸が詰まった。
……な、に? この悪寒はなに?
言葉に鳴らない声が漏れた。潰れ、ひしゃげた声になった。
「あ……」
ついで、身体が動いた。いやいやと激しく首を振る。
目を落とせば、足元に吾川琴音の亡骸が見える。苦痛にゆがみ、かっと見開かれた瞳。四肢を投げだし、あぶくのような唾液を口元からこぼしている。
自分が殺した少女だ。
ここでやっと、はっきりと罪を自覚した。
「なんてことを……」
と、唐突に彼女の亡骸から何かをイメージした。しかし、イメージは朧で、それが何であるかは掴めない。ただ、彼女の体のあちこちから糸のようなものが見えたような気がした。
「え?」
ややあって、はっと息をのみ、自身の肩口を見やる。
やはり、同じような糸が見える。
透明な、実態のない糸が。
……何が見える? なにが、み、え、る? これは、なに?
自身に問いかける。
……誰? 私を追い詰めたのは、誰?
「……あ」
疑問の答えはすぐに出た。
永井、安奈だ。
「ああああああっ」
次第に高く大きく上がっていく、エリの声。それはもう、悲鳴と呼んでもよいだろう。
心臓が狂ったようにドラムを叩く。それなのに、全身から血の気が引いていくのを感じる。
「エ、エリ?」
柚香の声につられて入り口のあたりに視線を戻すと、永井安奈の姿が見えた。
安奈は恐怖に満ちた表情をしていた。柚香の腕をぎゅっと掴み、恐怖に耐えている。いや、耐えている振りをしている。
何が、みえる?
再び自身に問う。
なにが、見えた?
糸。吾川の背や腕、私の手や肩から糸が出ている。……その糸は誰の手にある?
遅れて、吾川琴音の亡骸から得たイメージの正体が分かった。
マリオネット。歪に手足を曲げ床に倒れる姿は、まるで投げ捨てられたマリオネットのようだ。
糸の正体も同時に知る。
……操り糸。
ここで、やっと。やっと、恐怖がエリに追いついてきた。
恐怖は紅く冷たい空気をまとっていた。エリの視界が真っ赤に染まり、身体には切れるような悪寒、怖気が襲う。そして、耳元で何かが囁く。ぞっとするような低い響きだった。
お前は、あ、や、つ、ら、れ、た。
まるで地震に襲われたかのように、エリの身体が大きく震え、波打つ。
数拍の沈黙の後、あらん限りの声、あらん限りの力を振り絞り、エリは叫んだ。
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