<木沢希美>
「木沢、木沢」
誰かの声がする。木沢希美が目を覚ますと、そこには野崎一也
の顔があった。
「あ……」
声を出そうとしたら、身体が痛み、軽く悲鳴を上げる。
小柄な体躯、ふっくらとした頬、肩までの黒髪を首筋のところで左右に分け結んだ髪型。
ざざざと水が押し寄せては返す音がした。
「こ、ここは?」
「海辺」
首を動かすと、月明かりに照らされた浜の向こうに暗い海が見えた。では、この音は波音か。強く磯の香りがする。
遅れて、北の海岸に身を潜めていたことを思い出す。どうやら、笹の群生の中で横になっていたようだ。
逆手を向くと、切り立った斜面が見えた。
垂直に近い土肌で、20メートルほどの高さ。その所々からでたらめな方向に木々が伸びていた。木々の枝葉の隙間から見えるのは、星に覆われた夜空だ。
崖下という言葉が頭をよぎる。
「中村くん……は?」
さっき声を聞いたような気がした。
訊くと、「水を汲みにいってくれてる」と返って来た。
息をのむ。開始以来ずっと会いたくて会いたくてたまらなかった相手だ。
「早く、会いたいな」
「すぐ、会える」
「……一緒にいたの?」
「ああ」
「電話とかメールとか何度も連絡したんだけど、返りが無くて」
そのことに苛立ちもしたものだ。
「色々あったからな。気にしてたよ」
「そう」
プログラム。事情は分からないが、数時間おきにたった30秒の通信許可時間ではタイミングが難しい場合もあるだろう。
それでも何とかしてほしかったと思うのは、我ままなのだろうか。
ふっと、靖史のことを思う。
希美が靖史のことを好きになったきっかけは、一枚の写真パネルだった。
二年の文化祭、何の気なしに写真部の展示ブースに入ってみたら、その写真が目に飛び込んできた。
被写体は、4,5歳の男の子だった。写真のほぼ全面がその男の子の上半身で、満面の笑みを浮かべ、両手を前に差し出すように写っていた。
その笑顔が、とても幸せそうで。暖かくて。
見てる希美も幸せな気分になれた。
そのときは、それだけ。ただなんとなく、中村靖史という展示者の名前を気にとめる程度で終わった。
やがて三年生に進級してみたら、その靖史と同じクラスになっていた。
学年始めの日、クラス毎の名簿に靖史の名前を見つけたときのことを、希美は今も忘れていない。
あの写真を見たときのように、胸がほっこりと暖かくなり、そして、靖史のことを好きだと感じた。
靖史のことは何も知らない。顔も知らないし、どんな性格なのかもしらない。知っているのは、靖史が暖かい写真を取れる人だということだけだった。
だけど、好きだと感じた。
やがて、実際に靖史を確かめ、その思いは強まった。
勉強や運動が別段できるわけではなかったし、目を引く外見をしているわけでもない。クラスでも地味な部類に入る男子だった。
だけど、その穏やかな人柄に好感は持てた。
それで十分だった。だから、靖史と同じ写真部の藤谷龍二に頼んで、仲立ちをしてもらった。
その後は、恐ろしいぐらいにスムーズに事は運んだ。
大人しい希美にしては積極的に話し掛け、そして、告白。
放課後、夕暮れの校舎。ストレートに「好きです」と言った。
靖史は一瞬キョトンとした顔を見せ、ぽそりと「そ、か」とだけ返してきた。
これが彼のOKサインで、その日から希美は靖史と登下校するようになり、休日には一緒に遊びに出るようになった。
ただ、靖史との付き合いは、体温の低いものだった。
手を繋ぎキスはするが、それ以上はない。
飯島エリや野本眞姫、但馬亜矢などすでに経験済みの女の子たちがクラスにいることは知っていたが、希美自身は実際の所、ほっと胸を撫で下ろしていた。
どちらかと言えば保守的な彼女にとって、このままごとのような恋愛は、それなりに心地よいものだったのだ。
その一方でやはり、不満も感じていた。
深い身体の関係になれないことではない。そんなことは、それぞれのスピードで進めばいい。
不満だったのは、靖史があまり気持ちを見せてくれないことだった。
靖史には好き嫌いがなく、何を食べても美味そうにしているし、何をしても楽しそうにしていた。希美に何か要求してくることもなければ、不満をぶつけてくることもない。
また、靖史は人物写真を撮ることが好きだったけれど、一度も希美の写真を撮ってくれなかった。
おそらくは、靖史は恋愛よりも写真が好きなのだろう。女の子と一緒にいるよりも、友達とわいわいやっている方が楽しいのだろう。
恋人同士って、もっと距離の近いものなんじゃないかなぁ。
だから、希美自身は積極的に胸の内を明かすようにした。
喜怒哀楽。全ての感情をオーバーに表す。
どうやらそのうちの怒の部分が強く伝わってしまったようで、「木沢は怒りんぼだなぁ。ほんと忙しく怒る」なんて失礼なことも言われてしまったが。
互いの呼び方も不満だった。
二人は名字で呼び合う。
希美としては下の名前で呼び合いたかったのだが、靖史にその欲求はないように見えた。無理に呼ばせるのもなんだか癪だったので、そのままにしていた。
いつか自然に呼んでくれたらと思っていた。
「近寄りたかったな」
見上げた夜空に、言う。
「えっ」
「中村くん、気持ちの見えない人だったから。なんか、遠かった」
次第に、意識が薄れていく。唇を噛み、耐える。
腹部に締め付けられるような痛みを感じる。
見やると、血が流れていた。
なにか。なにか、酷いことがあったような気がする。
小島昴と藤谷龍二の顔が浮かんだ。
何か、彼らに酷いことをされたような気がする。
「私……藤谷とか小島くんに、何かされた……?」
一也は一瞬迷ったようだが、「ああ」と頷き、「中村、無茶苦茶怒ってた」続けた。
「え?」
驚く。
「怒ってた」
それが大事なことであるかのように、一也はもう一度言う。
「あの、中村君が?」
信じられず、聞き返した。
丸顔に、小振りの鼻、きゅっとあがった眉。引き締まった口元。いつも穏やかな表情で、逆にそれが悩みの種だった。
もっと気持ちを見せてほしいと思っていた。
「中村は、木沢が酷いことされたから、怒った、んだ。木沢のことを、好きだから」
胸が熱くなる。
「見逃した」
「なにを?」
「そんな、レアな場面、見逃す……なんて」
冗談めかして言うが、声は掠れ、小さくなった。
「じゃ、中村が戻ってきたら、もう一度怒ってもらおう」
一也の声も掠れていた。声に涙が混じっている。彼が身体を震わせているのが分かった。
気持ちの見えない人だった。
だけど、ないわけじゃなかった。……そうなんだ。彼も私のこと、好きでいてくれたんだ。
気持ちが見えない。だからと言って、気持ちがないわけなんかじゃ、ない。
希美は簡単な事実を今この瞬間、知った。極めて簡単な事実を拾い上げていた。
だけど。
希美は思う。
だけど、気持ちは見せ合わなきゃ、伝わらない。
自分は努力して見せてたつもりだったが、まだ足りなかった。
もっと、早く、深く。気持ちを見せ合っていたら。そしたら、もっと早くに近づけていたのかもしれない。
どこかよそよそしい関係だった二人の距離。近くて遠い、くっついているようで離れていた二人の気持ち。
もっと、早くに。もっと早くに、言えばよかった。
写真を撮って欲しかった。好きだって言って欲しかった。下の名前で呼んで欲しかった。喧嘩なんてこともやってみたかった。
思ったときに、素直に伝えておけば、よかった。
早く、早く。早く、戻ってきて。
中村くんが戻ってきたら、下の名前で呼んでもらおう。私も彼を下の名前で呼ぼう。……靖史。靖史くん。……なんだか照れる。
視界が霞んできた。
早く、早く。
早く、早く……。
<野崎一也>
希美の瞼が静かに閉じ、彼女は死を迎えた。
肩を震わせていると、「死んだ、か」物陰から羽村京子が出てきた。
「ああ」
「似合いの……二人、だった、な」
京子が一言一言大切そうに続ける。
そして、どこか遠くを見た。
京子は死んだ楠悠一郎と交際していた。彼のことを思い浮かべているのだろうか。
視線を動かすと、少し離れたところに血を流して倒れている中村靖史の姿があった。絶命している。会話中、靖史の遺体が希美の視界に入らないよう、一也が身体でブロックしていたのだ。
希美には水を汲みに行ったと言ったが、あれも嘘だった。
一也と京子が海岸に降りた時には、胸を撃たれ、すでに死んでいた。
近くに藤谷龍二の亡骸もあった。
場面は見ていないが、上から見たとき、一緒に小島昴がいた。彼がやったのだろう。昴の姿は既になかった。
やがて、「怒れたじゃないか」彼に話しかける。
「え?」
京子が怪訝な顔をしたが、これは無視し、「怒れたじゃないか」繰り返す。
ある程度の察しはついたのだろう、「中村のあんなの、初めてみたな」口をへの字に曲げる。そして、「偉かったな」呟いた。
「う……ん?」
「偉かった、な」
どうやら、誉められているらしい。
「京ちゃん?」
「木沢、きっと、中村がまだ生きていると思ったまま、死ねた」
無言を返す。
「偉かったな。彼女、幸せなまま、死ねた」
何も答えることが出来なかった。代わりに、嗚咽が漏れた。
−中村靖史・木沢希美死亡 15/32−
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