<安東涼>
しばらくの間、安東涼は井戸の横に膝をつき、激しく息を乱していた。
どきどきと胸が鳴っている。
呼吸を小さく刻む。一度、大きく深呼吸。
かき分ける水の音はすでに消えている。恐る恐る井戸の中を覗き込むと、差し込む月の光の中、ぷかりと浮かぶ影が見えた。
身体をくの字に曲げた、人の背中だった。
西沢海斗だ。手足と頭部は水の中に沈んでいる。もう命はないのだろう。
何かがおかしいと思ったら、両手が瘧を起こしたように震えていた。
がたんっ、背後で音がし、心臓が逆バンジーを決行する。
矢田啓太郎に見られたのだろうか。
まずは瞑ってしまった両の眼をこじ開け、視線だけを動かそうとしたが、当然のことながら、背後までは目が届かない。
……神様、どうか矢田がいませんように。
祈るような思いで、少しずつ首を後ろに回す。
果たして、涼の後ろには誰もおらず、ゴミ箱のふたが地面に落ち、からからと回っていた。何かの拍子に外れたのだ。
「脅かすなよ……」
遅れて、自身が激しく動揺していることに気づく。
これまでに、生谷高志や佐藤理央、筒井まゆみを殺してきた。
それぞれ人を殺す恐怖は感じたし、心乱れもした。
だけど、今回ほどではなかったように思う。
むしろ、次第に感覚が慣れ、そういった感情はマヒしていくものではないのだろうか。では、どうして。
両手で自身の身体を抱き、震えを抑えながら、その理由を探る。
やがて、一つの答えを得、「ああ……」涼は重く息を置いた。
「金なんて……いらないから」
西沢海斗の台詞を復唱する。あの台詞に激高し、涼は彼の背に両手を向けた。
金には、親が生きていたころから苦労させられた。
ろくでなしの両親が死んで孤児院に送られてからも、金銭的な厳しさは変わらなかった。
今、色んなものを擦り減らしながら奪う側に回っているのも、優勝し生活保証金を手に入れるためだ。そして、劣悪な環境で有名な官営孤児院にいる弟を迎え、二人で暮らす。そのために、涼はプログラムに乗った。
そんな涼の前で、海斗は「金など要らない」と言った。
許せなかった。
瞬間的なものだったとはいえ、すでに通り過ぎたものとはいえ、我を忘れるほどの怒りと憎しみを覚え、涼は彼を殺めたのだ。
分かっている。
クラスメイトを殺して回っている理由を突き詰めれば、「生きたいから」になる。
濁った水を濾して最後に残るのは、生命へ執着心だ。弟云々は、どこかのタイミングで濾過されてしまう。
自身が生き残るべきだと高慢に考えているわけでもない。人殺しに悦楽を感じるわけでもない。他人を蹴落とす特段の理由があるわけでもない。生きたいから、涼はプログラムに乗っている。
ただ、その中でもまだ言い訳はできた。
……これはプログラムだから。死にたくないのはお互いさまだから。
そう思えばこそ、精神の安定をはかれた。
だけど、西沢海斗は違う。
彼を殺めたのは、憎かったからだ。
それは、生谷高志らとの決定的な違いのように感じられた。
もちろん、涼をここまで追い詰めたのはプログラムだ。
日頃ならこんなことはしない。
普段の学校で、物質的金銭的に恵まれた環境にある彼が金を軽んじる発言をしても、殺すことはない。人の世の不公平さにため息をつくだけだ。
プログラムだったから、涼は海斗を殺した。
それは事実だ。
その事実をよりどころに、「仕方が無い、仕方が無い……」呟きを繰り返してみる。
しかし、少しの間を開けて、涼は肩を重く落とした。
他のクラスメイトと海斗の違いは、既に心の深い部分が認識してしまっている。となれば、どれだけ自己弁護しても無駄なことだった。
まずいことに、落ち着いてみれば、西沢海斗の心情に寄ってしまう自分もいる。
心の支えを抜き取るような危険な考えだが、本当のところを言えば、金なんて要らないのだ。ただ、日常に返してもらえればそれでいいのだ。
金なんて、生きていればどうとでもなる。
その気になれば、時間はかかるだろうが、弟を現状から助け出すこともできるだろう。
だけど、あの時はそんな理屈は吹っ飛んでしまっていた。
ただ憎かったから、彼を殺した。
それもまた、事実だ。
「ああ……」
深く、深く、息をつく。
*
弱り切った心を叱咤し、涼は後援会事務所へ戻る。
矢田啓太郎は元いた部屋で眠りこけており、ほっと胸をなでおろす。体勢も変わっていない。
と、気配に気づいたのか、矢田啓太郎がソファからゆらりと起き上がった。
「あ、ごめん、寝てた」
寝ぼけ眼だ。元々細い目がさらに細い。ソファに座り直し、短髪をがりがりと掻く。
「いや……」
どぎまぎとしていると、周囲を見渡し「あれ、西沢は?」訊いてくる。
まずいことに、何も考えていなかった。
当然訊かれるはずだったのに、準備をしていなかった自分に呆然とする。
数秒ほどの間の後、はっと我に返り、「で、出て行った」答える。
「え、そうなんだ」
驚いた様子の啓太郎の視線が一点で止まった。「あれ、でも」怪訝な顔を続けてくる。
視線を追った涼の心拍がどきりと上がった。
西沢海斗の荷物が部屋の隅に置かれたままだ。
慌てて、「さっき二人でちょっと表に出てたんだが……誰かを追って、突然走って行った。そのまま、帰ってこない」取り繕う。
しどろもどろの誤魔化しだったが、心のどこかで安堵する部分もあった。
策を練る余裕が無いということは、自分が冷酷な殺人者からは程遠いということでもある。
……まだ俺は当たり前の人間でいられているのだろうか?
「そ、か」
啓太郎が大きな呼吸をした後、「三井田か誰かを見つけたのかな……だといいんだけど」海斗の心配をする。
三井田とは三井田政信のことだ。
啓太郎や西沢海斗と同じバスケットボール部。
奔放で気ままな性格の政信のこと、啓太郎たちを振り回しっぱなしだったようだが、彼にはどこか憎めないところもあり、三人は仲が良かった。
まぁ、とにかく。
これも渡りに船というのだろうか、「たぶん、そうだな。西沢が追ったのは、背の高い男子だった」彼の推察に乗ることにした。
「いや、でも、三井田か……」
啓太郎が形の良い眉をひそめる。
海斗が三井田政信と合流することを良しとしていないように見える。
「どうかしたか?」
不思議に思い、尋ねる。
「……三井田ってさ、プログラムでどうするか、その場の気分で変えてきそうじゃない? 僕さ、三井田がプログラムに乗っているところも、誰かと一緒に逃げ回っているところも、誰かを守っているところも、プログラムを嫌がって自殺するところも、ふつーに想像できちゃうンだよね。どれも違和感ないというか」
言われてみれば、同じくどのイメージもしっくりくる。
仮に海斗が政信と合流していたとしても、安心できないということか。
実は、野本眞姫と坂持国生も同様の会話をしているのだが、それは涼の預かり知らぬ話だった。
「まぁ、無事だったら、帰ってくるだろ」
適当に答える。
実際の海斗は、すでに冷たい井戸の中だ。
そして、井戸に突き落としたのは涼自身でもある。
素知らぬ顔を装うとしたが、声が粘っこくなり、こめかみのあたりが引きつる。
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