<西沢海斗>
垂直型の丸井戸だった。
木造りの簡素な屋根と囲いがつけられており、釣瓶が見えた。蓋が付いていないところをみると、まだ現役なのだろう。
水を汲み、桶の中を覗きこむと、水面に自身の顔が映った。
揺れる水鏡、髪の一部が焦げ、頬にガーゼをあてた細面が映る。瞼が腫れぼったい。
酷い有様だと思った。
そして、一刻も早くこの場から、プログラムから逃げ出したいと思った。
「なんで……こんなことに」
虚脱した思いと共に、肩を落とす。
がぶがぶと水を飲む。
しかし、喉の渇きは癒えず、絶望感も変わらなかった。
もう一度と、水を汲み上げ始める。
「……いらないから」
滑車を操りながら、思わず口を衝いて出る言葉。
「え?」
「金なんて、いらないから」
プログラム。
クラスメイトを全員殺し、最後の一人になれば生きて帰ることができ、生涯補償金を手に入れることができる。
しかし、補償金などいらなかった。
ただ、帰してくれればそれでよかった。
拝金主義の父親を嫌いながらも、その庇護から出ることはできない自分を不甲斐なく感じていたが、能力や容姿、加賀山陽平や部活仲間など友人にも恵まれ、概ね幸せな日々だった。
金なんて、いらない。
強く、思う。
金なんて、いらないから、あの平凡な毎日を返してほしい。
と、「じゃぁ、俺が貰ってやるよ」背後から声がかかった。
「え?」
振り返ると、真後ろに安東涼が立っていた。
ひょろりとした中背。制服のズボンに、黒地のジップアップシャツ。すっきりとした細面の左のこめかみからあご先にかけて、刃物で切りつけられた傷がある。筒井まゆみに襲われたときの怪我だと言っていた。
そして、その切れ上がった瞳に憎悪が見えた。
静かな怒情が蒼く光っている。
「安東?」
その名を呼んだ瞬間、彼に井戸に突き落とされる。
一瞬の落下、さばんと音を立てて、海斗は着水した。
存外に深く、足がつかない。ざばざばと水を掻きわけ、蹴り上げ、水面に顔を出す。
「た、助けっ」
てくれ、と最後まで言えなかった。口を開けたことで水を飲んでしまった。
衣服や包帯が水を含み、身体に重みが増す。
水難事故で衣服がどれだけ危険な要素になるか、何かの本で読んだことがある。慌てて上着を脱ごうとするが、濡れて纏わりつき、うまくいかなかった。
また、足がつかないことが単純に恐ろしかった。
水底から何か得体のしれない黒い物が浮かび上がってくるのではないかと、その何かが足を掴むのではないかと、恐怖する。
遅れて、どうしてこんなことになったのか、理解する。
安東涼は孤児だ。金にも苦労しているだろう。その彼の前で金を軽んじるような台詞を吐いてしまった。結果、彼の怒りを買ったのだ。
……ああ、また。
混沌と恐怖の中、奇妙な冷静さで自己に嫌悪感を向ける。
……ああ、また、俺は無神経なことを。
ついで、肩に何かの衝撃を受ける。
「がっ」
潰れた悲鳴がこぼれた。
水を掻きわけ、立ち泳ぎの体勢で見上げると、涼が何かいびつに丸い物を投げ入れようとしていた。
大きな石だった。今度は右のこめかみのあたりで受ける。があんと頭蓋の中で音が踊り、額が割れ、鼻から温かい血がつっと流れた。
一瞬、気が遠くなり、沈みそうになる身体を叱咤し、必死で浮き上がろうとするが、叶わなかった。
視界が暗くなる。
冷たい水に体温を奪われ、打撲の衝撃に力を奪われる。身体が痺れ、水を掻きわけることができなくなった。
……それは、死を意味していた。
−西沢海斗死亡 18/32−
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