<木多ミノル>
「もっと」
ミノルは、暗く澱んだ思いを口に出す。
もっと誰かを踏みつければ、もっと酔えるのかもしれない。そうすれば、怖くなくなるのかもしれない。一人でいることが怖くなくなるのかもしれない。
起き上がり、視線を動かす。
茂みの向こうに、森林道が見える。ミノルはその道に向けて、支給武器のボウガンを置いていた。
このボウガンはピアノ線のラインを使い、トラップにもできる。
ピアノ線を誰かが踏んだら、これをトリガーにして矢を発射できるのだ。
ボウガンはいま、道の反対側の木からラインを張り、トラップモードにしてあった。
この辺りは後数時間で禁止エリアになる。
そろそろ動かなくてはと、ボウガンのラインを解除しようとしたその時、森の奥に一人の男子生徒の姿が見え、どきりと脈が波打った。
口から飛び出そうになる悲鳴を必死に抑え、中腰の体勢になり、様子をうかがう。
木の影となってよく見えないが、すらりとした長身のようだ。手足が長い。
「矢田か?」
接近者の体格は、バスケットボール部の矢田啓太郎を思い出させる。
啓太郎は穏やかな質だ。
彼とならば、合流できるかもしれない。
全身に期待と血が巡るのを感じた。
接近者に月明かりがかかる。
ああ……と失望の息を吐き、「三井田……」ミノルは呟いた。
残念ながら、同じバスケットボール部でも矢田啓太郎ではなく、三井田政信
だった。
すらりとした長身。目じりが落ちる細目。頭には青地のタオルを巻いており、耳元や首筋から軽くウェーブを描くミディアムヘアが覗いている。
大口径の銃……おそらくショットガンだ……を肩がけしており、ミノルは震えあがった。
彼はこちらの存在には気づいていないようだった。
いつの間にか森から出、軽快な足取りで森林道を歩いている。飄々とした雰囲気はプログラムの今も変わらず、余裕が感じられた。
身体の震えを抑えきれないでいるミノルにはとても信じられない様相だ。
三井田政信もまた、ミノルが苦手とし、羨望の目を向ける生徒だった。
バスケットボール部に所属するスポーツマン。授業中は寝てばかりなのに、成績は悪くない。友人も多い。
そして何よりも女にもてる。いい加減な性格で不義理もするのに、見目がそれほどいいわけでもないのに、女が切れたことはないようだった。
クラスでも、野本眞姫、飯島エリの二人と同時に交際していた。
彼のように生きられたら、とは思わないが、思春期男子としては羨ましいことこの上ない。
二人とは既に別れてしまっているが、眞姫とは今でも友だち付き合いを続けているようだ。
眞姫や友人の西沢海斗と笑いあう姿は、ぱっと花が咲いたようで、華やかだった。彼の周囲だけ明度が高く、光がえこ贔屓しているのではないかとすら思う。
政信のプログラムへの立ち位置は読めなかった。
プログラムに積極的に乗っている姿も、誰かを助けている姿も想像できた。
また、いい加減な性格な彼のこと、その場その場の気分で行動を変えてきそうだ。
地面に設置したボウガンを、ちらりと見やる。
このまま彼が進めば、トリガーのピアノ線に掛かるはずだった。
ピアノ線は極細だ。気づかれることはないだろう。威力は野本眞姫で証明済みだ。
ごくり、唾を飲み込む。
このままにして置こうと考える。
上手くすれば一撃で彼を殺せるかもしれない。上手く行かなくてもそれなりの傷は与えることができるだろう。
そして何よりも、三井田政信が恐怖に顔をひきつらせる姿を見てみたかった。
彼を踏みつけたかった。
もっと酔いたかった。
ミノルには飲酒の経験があったが、ぐらぐらと頭が回りすぐに吐いてしまった。
皆は気持ちよさそうに酔うのに、俺は酒すらも上手に飲めないと、自己嫌悪に陥ったものだ。
だけど、この酔いは違った。あからさまな爽快感。この感覚に身をゆだね、もっと酩酊したい。そう、思う。
考えている内にも政信は近づいてきている。
ごくり、唾を喉に落とし、ミノルは震える拳を握りしめる。
と、ここで唐突に、筒井まゆみのことを思い出した。
彼女は二年時までは楠悠一郎のグループに所属していたが、どのような心境の変化か、三年になってすぐに抜けて行った。
何事もシンプルに捉え、裏表のないさっぱりとした気性で、抜けるときも「じゃ、私抜けるから」とあっさりと宣言したものだ。
ただ、悠一郎は離脱にペナルティを科す人間だった。
女に暴力をふるうことも厭わない。
しかし彼女は屈しなかった。
なんでそんなに頑張るんだと、訊いたことがある。
まゆみは気が強く、ミノルの苦手なタイプではあったが、どこか話しやすい雰囲気もあり、彼女とはそれなりに交流があった。
まゆみは軽く笑って、「私は、私のやりたい風にやる」と胸を張っていた。
そして、「私と話してるところを見つかると、また楠にやられるよ」とミノルの心配までしてくれたものだ。
結局、当時悠一郎と交際していた羽村京子がとりなすまで暴力は続いたが、まゆみは音を上げなかった。
その彼女も既に死んでいる。
彼女に自殺はない。
誰に殺されたのかは分からない。だけどきっと、プログラムには乗ったのだろう。事の是非はともかくとして、それが彼女らしい選択だ。
筒井まゆみは、生きる権利を行使したのだ。精一杯戦い、そして、死んだのだ。そう、思った。
ちくりと何かが胸を刺す。
遅れて、刺した感情の正体が分かった。
ミノルはいま、彼女の死を悼んでいた。
そして、どこまでも逞しくあったのであろう彼女に、憧れを感じていた。
憧憬と羨望は近い位置にはあるが、全く別の感情だ。
その違いは、ミノルにもよく分かった。
ミノルはいま、プログラムの恐怖に押し潰されそうになっていた日常を取り戻していた。
ろくな毎日ではなかったが、いいこともあったような気がする。
遅れて、悠一郎の母親から彼が元苛められっ子だったと聞いたときのことを思い出した。
あのときはたしか、羽村京子の誕生日プレゼントを取りに行かされたのだ。
デート中の悠一郎からメールで指示された。
悠一郎はあれで京子の尻に敷かれており、プレゼントを家に忘れたことに焦っていた。
彼からの受信はいつも使い走りばかりで、嫌な気分にさせられることも多かったが、あのメールを読んだときは、なぜだか嬉しかった。
また、顔をしかめながら悠一郎がプレゼントを選んでいる場面を思い浮かべ、苦笑したものだ。
あれは……そう、『いいこと』だ。
……俺は、あの毎日に帰りたい。
この間にも政信は森林道を進む。ラインまで後、5,6メートルのところまで来ていた。
と、立ち止まり、周囲を見渡した。息をのみ、その様を見詰める。政信はくんと鼻を鳴らしていた。
先ほど少し吐いた。
吐物の匂いが政信まで届いてしまったのだ。
と、ここで再び嘔気に襲われ、必死で抑え込んだ。
喉元まで吐しゃ物があがってきたような感覚。口腔内に酸臭が広がる。
目の前の空間に、膝をつき、嘔吐している自身の姿がイメージされる。その傍らには、トラップにかかり息絶えている三井田政信の……いや、筒井まゆみの姿が。
「どうして?」
困惑。
どうして、あいつを殺したイメージを見る?
筒井まゆみ。楠悠一郎の暴力にも屈せず、戦った彼女。そんな彼女を自分が殺すはずもない。
「なのに、どうして?」
続けて、楠悠一郎のことを思った。
彼の母親によると、悠一郎は幼いころは苛められっ子だったらしい。しかし彼は自身から空手道場に通い、身体を鍛え、そんな環境から抜け出した。
羽村京子。プログラム説明時に、鬼塚教官に食ってかかっていた彼女。彼女も戦っていた。
それぞれ、正しく生きていたわけではない。
京子など、結城美夜にまともに恨まれているだろう。
だけど、みんなみんな何かと戦ってはいた。
……俺は?
省みて、自身が何とも戦ってこなかったことに気づく。ただ、羨み、妬み、生きてきた。
ぱしり。頬を平手で叩かれたような感覚。
実際の痛みはない右頬をさすり、ミノルははっと息をのんだ。
……筒井だ。
ミノルの頬を叩いたのは、筒井まゆみだった。
酔いがさめる。
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