<木多ミノル>
22時、北の山のふもとに広がる森は静寂に包まれていた。夜空には雲が掛かり始めており、その隙間から白い月の光が落ちてきている。
木多ミノルは、楢の木の幹に身を預け、膝を抱えて丸くなっていた。
視線の先は、泥に汚れた自分の靴先だ。
泥を払おうとした右手が呆れるほどに震えている。華奢な中背、額に落ちる長い前髪、にきびの目立つ頬。
ミノルは孤児だった。
物ごころついたときには、慈恵院という孤児院におり、そこで育った。
伝え聞いた話では、生後間もないうちに、繁華街の裏路地に捨てられていたらしい。
ろくでもない出自。ろくでもない人生。勉強はできない。運動もできない。人とはうまく付き合えない。その中で常に周囲を妬み、恨み、生きていた。
「誰か」
救いを求めるが、助けてくれるようなクラスメイトはミノルにはいない。
ミノルが使い走りをしていた楠悠一郎はプログラム早々にリタイアしているし、仮に彼が生きていたとしても、恐ろしくてとても合流できなかった。
悠一郎は身体が大きく、粗暴な性格だった。
空手の有段者でもある。素行の悪い生徒たちを力と威圧でねじ伏せ、その中心になっていた。
そのうちの一人だった羽村京子はまだ生きている。
彼女もまたいっぱしの不良娘だが、普段ミノルに危害を加えてくることはなかった。
薬や売春にも手を出していなかったはずだ。
ただとにかく気が強く、極力近寄らないようにしていたので、もともとあまり話したことが無かった。彼女との合流は躊躇された。
彼女はプログラム説明時に、担当教官に食ってかかっていた。
また、京子は悠一郎と交際していたことがある。
彼女はどんなふうにプログラムを過ごし、悠一郎の死をどんなふうに受けて止めているのだろう。
ふっと重い息を吐き、二つ折り式の携帯電話を取り出す。
キーパネルをゆっくりと指で撫でる。
本体自体はスラム街で手に入れた出所怪しい品でタダ同然だったが、月々の使用料金が孤児のミノルには厳しかった。
アルバイトで稼いだ金をつぎ込んで無理して維持していたものだ。
それでも、同じ孤児院で過ごしている安東涼のような、持たないという選択肢は、ミノルにはなかった。
そんなことをしたら、本当に一人ぼっちになってしまう。
ミノルは極端に孤独を嫌う質だ。
だけど、人とは上手く関われないジレンマ。
何気なくメールや電話の着信履歴を見たら、そのほとんどが楠悠一郎からで、苦笑する。
酷い男で、乱暴も多々働かれた。
着信の内容は全て使い走りだ。
対等な友人関係からは程遠かったが、それでもミノルがこの世界にかろうじて引っ掛かっていた鉤爪だったのだと知れる。
クラスメイトの幾らかは、きっと普段親しくしていた仲間たちと合流しているのだろう。
比べてミノルは一人だった。
いっそ、気が狂いたかった。
……そう、結城美夜のように。
ふと、今朝がた南の山で見かけた彼女のことを思い浮かべる。美夜は気が触れたようになっていた。
瞳は焦点が定まっておらず、声をかけても反応がなかった。
淡々と、楠悠一郎や羽村京子、重原早苗に向けて呪詛の言葉を呟いており、薄気味が悪かった。
美夜がこの三人に呪いをかけようとした理由は分かる。
悠一郎たちは、それぞれ粗暴なふるまいの目立つ生徒だ。
彼女のように大人しい生徒には普段から恐怖の的だったのだろう。
そしてプログラムの今、その恐怖心は限界を越えて膨れ上がり、彼女の心を押しつぶしたのだ。
また、羽村京子には実際に害もなされていた。
京子は美夜の何が気に入らなかったのか、辛く当っていた。
一度など、美夜の髪を切ったこともあり、「そこまでしなくても」と驚いたものだ。
きっと、美夜の恐れや呪詛の大部分は京子に向かっているに違いない。
その姿に禍々しいものを感じ背筋が寒くなったものが、今となってはそんな彼女のことすら羨ましい。
狂気の中にいれば、恐ろしさに震えなくて済むのだろう。
……人を殺した事実に押し潰されそうにならずに済むのだろう。
遅れて考え、「ああ、チクショウ」両手を髪に分け入れ、がりがりと頭を掻き毟る。
野本眞姫を殺したことを思い出してしまった。
忘れたいのに忘れることができない事実。
数時間前、支給武器のボウガンで彼女を殺めた。
山道に崩れ落ちる彼女の姿が、目に焼き付いて離れない。嗅いだ血の匂いは、今でも鼻をついてくる。
それ以来何度も吐き続けている。
再び吐気に襲われ、身体をくの字に曲げる。
胃の中はほとんど空っぽだ。少量の残渣物のほかは、胃液がほとんどだった。酸っぱい匂いが辺りに漂う。
山の中腹あたりの森で身を隠していたら、坂持国生とクラス委員長の鮫島学が通りかかった。二人組だったので安全だと考えられたが、どちらともほとんど話したことが無く、声はかけづらかった。
本当は逃げ出したかったのだが、足がすくんで動けないでいるうちに、野本眞姫が現れた。
そして、彼女を殺してしまった。
ボウガンを彼らに向けたのは、怖かったからだ。
学たちが話しているのを見ている内に、三人が徒党を組み自分を襲うイメージが脳裏をかすめ、全身の産毛が総毛だった。
愚かな妄想だったが、拭うことはできず、彼らにボウガンを差し向けた。
本当は、鮫島学を狙った。
あの三人の中で最もやっかいなのは彼だった。運動神経抜群だし、頭も切れる。また、決して人が良いとはいえない性格でもある。
しかし、ボウガンなど初めて触ったし、もともとミノルは器用ではない。
矢は明後日に向かい、眞姫を殺してしまった。
「……俺の、せいじゃない」
吐物で汚れた口元を拭い、思いついた台詞を吐く。
ややあって、膝を抱えたまま、はっと顔を上げた。
少し、気が楽になったのだ。
慌てて、救いを求めるようにして、「俺の、俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。俺の! せいじゃっ、ない!」繰り返す。
「ああ……」
安堵の息をつく。
「……本当は、殺したくなんてなかった」
だから、仕方がない。
「勝手に死んだ、あいつが悪い」
だから、俺は悪くない。
「勝手に壊れた、あいつが悪い」
だから、俺は悪くない。
繰り返せば繰り返すほど、重く沈んだ心が軽くなる。
と、細身フレームの眼鏡をかけた鮫島学の顔が浮かんだ。
短く刈り込まれた茶髪。眼鏡の奥の三白眼。
ボウガンを差し向けた時、その顔が恐怖に歪み、引きつった。
いつもの人を小馬鹿にしたような表情はけし飛んでいた。ただミノルを恐れていた。あの、無様な姿。
ここで、「恐れていた? あの鮫島が、この俺を?」言葉に出し、確認する。
学は学力優秀でクラス委員長を務めている。運動神経もいい。野崎一也や坂持国生といった友人もいる。家は貿易業を営んでおり、裕福だ。
容姿は十人並みだし、プライドの高さが災いして女子生徒の人気は芳しくないようだが、それを補って余りある物を彼は持っていた。
その一つ一つは、ミノルには決して持ちえないものだ。
その鮫島学を。
痛快だった。
口元が緩む。
プログラムに巻き込まれて以来、もしかしたらこの世に生を受けて以来の笑みかもしれなかった。
冷え切っていた胸に何か生温かい物が流れ込んでくるのを感じる。その何かは黒く淀んだ色をしていた。
じわじわと侵食されていく。
それはそれで恐ろしいことだったが、こうして楽になれるのならそれでいい。そうも思う。
そして、「これだったのか」一人頷く。
楠悠一郎のことだ。
今でもこそ、荒くれ者のボスを気取っている悠一郎だが、実は元いじめられっ子だったそうだ。
いつだったか、悠一郎の家に荷物を取りに行かされたときに、彼の母親が言っていた。
酒焼けした声、赤茶けた髪、濃い化粧。
明らかに水商売、それも随分と海に近い下流で生計を立てていることが伺えた。
表札には父親の名前が出ており、離婚しているわけでも、死別しているわけでもないようだったが、家に彼の存在を示すものはなかった。
何かしら事情があるのだろうが、悠一郎にはとても訊けないし、母親に訊くのも憚られた。
母親の話によると、彼は小学校低学年ぐらいまで身体が小さく、気が弱かったため、よく苛められていたそうだ。
そのうち自分から空手の道場に通い、身体を鍛え始めた。成長期に入ると身体も大きくなった。
そして、いつしか苛められっ子を卒業していた。
それとともに態度は不遜になり、性質は乱暴になっていったそうだ。
「あいつ、馬鹿だし、乱暴だけど、苛めはやんないでしょ」
顔をしかめながらも、少し誇らしげに母親は言っていたものだ。
それは確かにそうだった。
粗暴であることには変わりはないし、周囲に暴力を振るう。グループを抜けようとした筒井まゆみは、一時生傷が絶えなかった。
ストレートな暴力。
もちろん正しいことではないのだが、陰湿ないじめは彼の専門外だった。ときに坂持国生などをからかうこともあったが、それだけだった。
それには、過去の経験が影響しているのだろう。
ただ、力には酔っていた。力で誰かをねじ伏せることには酔っていた。
「これだったのか」
もう一度、呟く。
悠一郎の酔いが、今のミノルには分かる。
どこをどう切っても敵わないと思っていた鮫島学の顔を恐怖に引きつらせた。その事実が、ミノルを酩酊させる。
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