<黒木優子>
ここで、『あるもの』に優子は気が付いた。
閃く何か。
左の棚にそっと手を伸ばし、そのキャップを外す。政信は優子が手にしたものを見て、怪訝な表情を浮かべている。
一度、大きく深呼吸をした。これで身体の震えが若干……あくまでも若干……止まった。
「な、に、やってんだ?」
眉を寄せ、政信が訊く。
優子が手に持っていたのは、液体洗剤の入ったプラチックボトルだった。
「殺す?」
出来る限り余裕ぶれるよう、優子は必死で自分の表情をコントールしようとした。
「やってみな……よ。でも、ただでは死なないよ」
政信の表情が変った。走る困惑。
優子は強張る身体に叱咤を入れながら、言葉をつむいだ。
「硫化水素」
「はぁ?」
「硫化水素、ガス」
繰り返すと、政信が怪訝な顔をする。
普通なら、会話もなく問答無用に撃ち殺されていたはずだ。それが、この交渉にまで持ち込められた。……それはきっと、三井田政信ゆえだろう。
「ちょっと前によくニュースになってたよね」
2008年ごろから硫化水素を発生させ自殺する事件が多発していた。
三井田が持ったショットガンがいつ火を吹くか分からない。いつ殺されるか、分からない。
額に滲んだ汗を、そっと拭う。
目線を下げ、彼の視線も誘導する。
床にはショットガンで撃ち抜かれた一斗缶が横倒しになっており、そこから液体農薬が広がっていた。
「で、私が持っているのが、洗剤。塩素系。……撃ってみなよ。そしたら、私、この洗剤をばらまいてやる」
政信が唾液を喉に通す音が聞こえた。
その表情には緊張感が見え、先ほどまでの緩さが影をひそめつつあった。
「化学反応。化学の時間に習ったよね。混ざり合うと反応が起きて、他の物質が発生する」
ごくり。今度は優子が唾液を喉に落とした。
二人の心臓の鼓動が重なり合って聞こえた。
「硫化、水素ガス。あたし、死ぬでしょうね。だけど、あんたも道づれだ」
すうう。大きく息を吸い、政信をきっと睨みつける。
そして、「死ぬときは、一緒よ!」優子は意図的に声を荒げた。その迫力に押されて、政信が一歩足を引く。
さらに、ここからだ。
「さ、どうするの? 私を殺すの? ……やりたきゃやりな。私、あんたの銃で死ぬかもしれない。毒ガスを吸って死ぬかもしれない」
笑え。
私の顔、笑え。もっと自然に。もっと余裕を持って。
「だけど、そのとき、あんたも死ぬのよ」
一瞬、政信の表情に恐怖感が見えた。「嘘……つくなよ。なんでお前がそんなこと知ってるんだ。ニュースじゃ作り方は出てこなかったぞ」
もっともな疑問だ。
確かに、事件が蔓延することが恐れられ、報道は規制されていた。
「知らないの? 私のパパ、高校の化学の先生なんだ。だから、私、化学得意なの」
政信がちっと舌打ちをした。
ショットガンを優子に差し向けたまま、後ろ手で農機具倉庫の鍵を開ける。軋んだ音を立ててドアが開いた。
「で、出て行って、表で待ってよう、私が出て来るのを待とう、なんて考えないでよ。……分かってるでしょ? 私たち、相当に音を立ててる。それを聞いて、誰か他にやる気なヤツが近くまで来ているかもよ」
台詞を落としてから、言い過ぎたと後悔した。
喋り過ぎは良くないだろう。
じりじりと焼きつけられるような沈黙。
1分ほど睨み合っていただろうか。やがて、ひひゃはっ、政信が大きく口を開け、笑い声をあげた。
白く、整った歯。
「すげぇわ、お前。完敗。負けたよ。かーんぱい」
呆気にとられる優子を見て、政信がニヤリと笑った。
そして「まーた、どっかで会えるかもなぁ。お互い、死ななければ、他の誰かに殺されなければ、きっと、またどこかで会えるだろうなぁ」突然こんなことを言い出した。
「どういうこと?」
戸惑う。
「そしたら、もう一度、真剣勝負しようーぜ」
「なっ……」
「あーあ、プログラムに巻き込まれる前にくどいときゃ良かったなぁー。惜しいことしたわ、ほんと」
政信に毒気を抜かれ、優子は立ち尽くしていた。
足の震えはいつしかおさまっている。
そんな優子を泰然と見つめた後、ひひゃはっ、得意の笑い声を残し、政信は踵を返した。
雑木林の中に消えていく、政信の背中。
広がった農薬は避けて座り込み、ほおっと息を吐いた。
安堵、安閑。恐怖からの解放。
「……化学が得意? 父親が化学の教師?」
嘘だった。優子の父親は市役所に勤める公務員だ。
硫化水素ガスの作成法ももちろん知らない。
農薬と塩素がどのような反応を示すかも、知らない。
先ほどのやり取りはただのブラフだった。
だけど、勝った。
抜けた腰を引きずって農機具倉庫の入り口まで行き、扉をしっかりと施錠する。
そして、優子は笑い出した。上半身下着姿のまま。始めは震えとともに。しだいに歓喜の声で。
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