<中村大河>
大河も負けてはいなかった。
ヒロの顔を両手でつかむと、一度軽く上体を起こす。そして勢いそのまま、頭から突っ込んだ。
顔面に頭突きを食らった格好になったヒロが、声を上げた。鼻から赤い血がこぼれる。その双眸がぎゅっと閉じられた隙を大河は見逃さなかった。
サバイバルナイフを拾い、叩きつけるようにして刺す。
どこかを狙う余裕などなかったが、結果として右胸を刺す形となった。
刃先がジャケットやその中に来ている上着を突き抜け、肉を切る感触が手のひらに届く。そのまま刃は進み、肋骨で止まった。
さらに一撃と振り上げた手を掴まれる。
押し上げられるが、上乗りになった大河のほうが有利だった。ナイフを両手で握り、全体重をかける。
せめぎ合いは長くは続かず、刃先が再びヒロの皮膚に届いた。今度は体心よりやや左寄り。おそらく心臓を貫ける位置だ。
もうひと押しと体重をかけようとしたら、「十太がッ」ヒロが叫んだ。
「十太が、謝りたいって言ってタッ」
さらに続けてくる。
「え?」
「悪いことをしたナって言ってタ。滝口クンが兵士だってばらしたことヲ、後悔してタッ」
唾を吐くようにして言う。
ヒロにしては余裕が見えない、息せき切った台詞だった。
「今更、何言ってん、だ」
苛立ちを込める。
朔の秘密を暴露したのは彼だ。謝るなら始めからしなければよかったのだ。今更いい人ぶられても遅い。しかし、視界の滲みを止めることができない。涙が頬を伝った。
重苦しい何かが取り除かれた感覚。
ヒロの表情がふっと緩んだ。いつもと同じ、飄々とした雰囲気に戻る。
「……滝口クンもサ、辛かったと思うヨ」
遅れて、ヒロがごぼりと血を吐く。
大河の腕をつかんでいた手の力が抜け、ナイフが華奢な痩躯に沈んだ。
*
数分後、大河は地面に尻をつき座り込んでいた。ぜいぜいと息を上げる。部活で鍛えられ、体力はあるほうだが、さすがにハードだった。
視線を落とすと、血の海の中、ヒロが仰向けに倒れ目を見開いている。瞳孔が急速に拡大していく。
脈を取るが何の反応もない。呼吸も止まったようだ。
彼の命を奪ったのだと分かった。
呼吸を整え、ふらりと立ち上がる。
切られた胸元の傷が痛み、顔をしかめる。幸い、傷は浅かった。
碓氷ヒロの死亡は確認した。だがもう一つ。大河にはもう一つ、確認しておかなければならないことがあった。
杉林を抜け、先ほどの広場へと戻る。
広場には、ヒロが腰かけていた丸太とドーム型の小型テントだけが残されていた。
テントの入り口は、巻き上げ式のロールスクリーンになっている。
降りていたスクリーンを捲り上げる。
大河の目が見開かれた。ややあって、「ああ……」大きく息を吐く。
立ち回りの最中、大河は微かな違和感を持っていた。
その正体を、得る。
テントの中、膝を抱えるようにして座っていたのは徳山愛梨
だった。瞳はうつろで、大河が現れたことも認識できていないようだ。
ぼんやりと宙を見つめている。
名河内十太の姿はなかった。食料を集めに行っているという話は本当なのだろう。
……碓氷ヒロは、逃げ出したのではなかった。
急襲者の注意をひきつけようとしたのだ。
彼の駆け足がスムーズでなかったのも、意図的なものだったのかもしれない。
逃げ切ってしまっては、注意をひきつけた意味がなくなる。
「なんなんだ」
天を仰ぐ。
「なん、なんだよ」
口調を強め、同じ台詞を繰り返す。
「お前は、プログラムに乗ってたんじゃないの、かよ」
藪の向こう、杉林に横たわっているであろう碓氷ヒロに恨みごとを投げる。
「謝るのなら、秘密をばらさなければよかったのに。辛かったのなら、打ち明けてくれればよかった、のに」
ここにはいない十太と朔にも投げる。
「これじゃ、俺だけ、ワルモノじゃ、ないか」
脚の力が抜け、地面に両膝をつく。
やがて、テントの脇に何か小さなものが落ちていることに気づく。
大河のM360Dだった。
こんな所に落としたのかと拾い上げる。
ゆらりと右手をのばし、銃口を徳山愛梨に向けた。小型の回転式拳銃。そのグリップを握り、トリガーに指先をかける。
「……だけ、なのに」
生きたいだけ、なのに。俺は、生きたいだけなのに。
手が震える。
だけどこの距離だ。どこかしらには命中するだろう。一撃で死ななければ、何度か撃ち込めばいい。
ふと「……滝口クンもサ、辛かったと思うヨ」死に際のヒロの言葉が思い出された。
かっと胸が熱くなる。
目を吊り上げ、「そんなのっ」声を荒げた。
「そんなの、分かってるよ!」
怒声を地面に叩きつける。
大河は、滝口朔という少年をよく知っている。プログラム以前の姿も、プログラムを経て変わっていった姿もよく知っている。
彼が自分を殺しになどやってくるわけがないのだ。
確かに朔は兵士であることを隠していた。大河は裏切られていた。それは事実だ。だけど、性質は有りのままの姿だったはずだ。
朔は芸能やスポーツ、流行りの音楽などに異常に疎かった。
対象校への潜入の際、わざわざ時流に乗れないように振舞う必要性が、特異な目で見られるように振舞う必要性がどこにあるのか。
彼は装わず……正確には装えず、というところだろうが……大河に接してきていたということだ。
きっと、特殊な環境で生まれ育ったのだ。そして、世間ずれしてしまった。
その生活は、決して幸せなものではなかったのだろう。
分かっていた。頭のどこかで分かっていたが、大河はプログラムの現実に変えられ、裏切られたという思いに叩きのめされ、自暴自棄になっていた。
分かってはいたが、疑心と恐怖に煮崩れていく自分を止めることができなかった。
結局のところ、死にたくなかった。
だから、矢崎ひろ美を殴りつけ、碓氷ヒロを刺し、そしていま徳山愛梨に銃を向けている。
顎を引き、左手を震える右手に添える。
皮膚感覚が鋭敏になり、空気の流れすら感じていた。聴覚が冴えわたり、杉林の向こうで飛び立つ鳥の羽音が聞こえた。先ほどの烏だろうか。
風が吹き、杉の木が揺れた。
葉と葉が擦り合い、ざわざわと音が鳴る。枝葉の間から、太陽の光が薄っすらと落ちている。
ここで銃の向き先がすっと動いた。
緩慢に動いた銃口は、自身のこめかみにあてられた。ひやりとした感覚が走る。
目を細める。息を一度軽く吸う。
「なん、なんだ。……なんなんだ、よ」
先ほど碓氷ヒロに向けた台詞を再度呟き、大河は目を閉じた。作られた暗闇の中、先ほど清水に映した自分の顔が浮かぶ。幻想の瞳は開かれていたが、黒くうつろだった。
手の震えはいつしか止まっていた。
そして。
トリガーを引く。
重い反動とともに、耳をつんざく撃発音。火薬のにおいがあたりに散った。
弾丸は……テントの上部を撃ち抜いていた。
引き金に力を込めた瞬間、誰かに右手をつかまれ、捻じり上げられたのだ。
ばっと振り返り、その誰かを見る。
丸顔に頭の丸い鼻、くりくりとした愛らしかった瞳には鋭い光が宿っていた。茶色に染められていた髪は黒く染めなおされている。
表情は険しく、かつての可憐なイメージはなかった。
「なぎ、した?」
そうそれは、凪下南美だった。
大河は彼女に腕を掴まれていた。
−碓氷ヒロ死亡 07/28−
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