<藤鬼静馬>
彼と知り合って以来得続けてきた、不思議な親近感とそれに対する疑問。静馬はいま、その答えを見たようなきがした。
「まさか、君も……なのか?」
君も、同じ闇の淵を見ているのか?
しかし、すぐに静馬は大きく頭を振った。
……違う。そんなわけがない。
律は、殺人者ではない。目の前にいる少年は、殺人に悦楽を感じるような人間ではない。
具体的な理由などない。静馬はプログラム以前だけでも、計6人もの人間を屠ってきた。その経験が告げた。
なら、何なんだ? ぐるぐると思索が巡る。
律は全身の力が抜けつつあるようだ。薬品棚に背もたれることすら難しくなり、次第に傾ぎ始めている。だらりと投げ出した四肢が小刻みに震えていた。
しかし、目の力は衰えない。眼鏡の奥で黒い瞳が、闇と光る。
そして、陰り行く夕陽に照らされた律の表情に、微かな変化が生じたように感じた。
……怯えや焦燥が、消えた? いや、元々そんなものはなかったんだ。僕に、殺人鬼に対する恐怖心なんて、律には欠片もなかったんだ。
怯え、助けを求めているように見えたのは、律の演技だったんだ。
そう考え、あらためて律を見やる。
幼顔に浮かぶ表情は……関心。
「あっ」
思わず、驚きが口に出た。
関心、観察、分析、探求……。次々に言葉が沸いてでた。
少しの間のあと、律がひょいと肩をすくめた。
……バレちゃった。
言葉には出さなかったが、そんな表情だ。失血し青ざめる丸顔に、微かな笑みが一瞬間乗る。その目はきらきらと輝いていた。まるで、欲しかった玩具を得た子どものようだ。
仰天が、静馬の瞳を剥く。
殺戮者は、被害者であるはったはずの少年をまじまじと見つめた。
そう、静馬と律は、加害者と被害者という単純な関係であったはずなのだ。
なのに……。
こんなことが!
身体が震えた。
静馬は自分がこの世に一人だけの存在だとは思っていない。
大東亜共和国の報道には激しい規制が敷かれてはいるが、それは軍部や政府部に関連するものがほとんどで、個人の犯罪報道はそれなりにされる。
メディアからの情報により、自分と同じように正常の範疇から過剰に外れた人間が……数こそ少ないものの……存在することを、静馬は知っていた。
だけど、まさかこんなに近くにいただなんて!
律は、一言も発さなかった。自分について、何も語らなかった。それでも、静馬は今感じていることが真実だと悟った。
関心、観察、分析、探求。
全て馴染みの感情だった。静馬は、これらを殺戮の被害者に向け続けていた。
……同じものを、律は僕に向けてきていたんだ。同じ暗闇に、僕たちは立っていたんだ。 静馬は、自身の殺人衝動について、被害者やそれを取り巻く家族への深い関心から生じているものだと考えていた。
では、律は?
「僕みたいな……人間への興味?」
問うたが反応はなかった。しかし間違いなく、これが正解だ。
狂ってる。
そう思った。
狂気に優劣や上下をつけるなど馬鹿馬鹿しいことだが、静馬には律のほうが歪んでいるように感じられた。
特異な人間への関心は、程度こそあれ誰にでもある。
だけど律にあるのはそんな軽いものでない。
かといって、崇めてくれているわけでもないだろう。世の中に、殺戮者にカリスマを見る者がいることを、静馬は知っていた。同調はできないが、大罪に呑まれる人の心理はわからなくもなかった。
しかし律は違う。
崇拝してるわけではない。罪から生じたエネルギーに呑み込まれているわけでもない。ただ観察している。
加害者と被害者なのに、その関係は並列……もしかしたら、律のほうが上なのかもしれなかった。
この幼顔の少年は、自らに起きている恐怖を、惨事すら愉しんでいるのだ。ぎりぎりの命のやり取りの中で、殺戮者の分析を愉しんでいるのだ。
狂ってる。
もう一度思った。
だけど……。
「君のそれも、一欠けらなんだろ?」
ここで初めて静馬は返答を得た。
律が大きく目を見張った。素直に驚きを提示された。
ややあって、律は軽く顎を下げ、こくりと頷いて見せた。
静馬は普段の律をよく知っている。
少し大人しいところもあるが、まぁごく普通の中学生男子だ。
テレビドラマやバラエティ、漫画の話題で盛り上がり、ときには馬鹿もする。男同士でする下世話な話も嫌いじゃない。ファッションにも興味を持ち始めたようで、最近私服が変わっていた。小柄な体躯を気にし、牛乳を毎日飲んでると言っていた。
その一つ一つは真実だったはずだ。決して、仮面ではなかったはずだ。
ただその中に一欠けら、殺人嗜好者への暗い関心が宿っているだけなのだ。
先ほどは律の中に恐怖心がなかったと考えたが、これも間違いだったと知れた。
律にはたしかに異常なところもあるが、それが全てではない。死に対する恐怖も、当たり前の感覚として持っているに違いない。
例え、怯えているように見せたことが演技だったとしても、無から作り出したものではなかったのだろう。
ただ、そんな感情よりも、殺戮者に対する関心のほうが高かっただけなのだ。
*
定時放送がはじまった。
校内と外部のスピーカー音が重なり、少し聞き取り辛いが、生き残りが二人になったことは分かった。
壁時計を見やると18時をさしていた。プログラム開始から18時間。たった18時間で、8人の命が失われたのだ。その中の多くは、静馬が屠った。
「プログラム……」
そう、これはプログラムだ。最後の一人にならなければ、生き残れない。
「僕は、君を殺さなければ生き残れない……」
律が訝しげに眉を寄せた。
今更何を、とでも言いたいのか。
静馬は積極的にクラスメイトを殺めてきた。そして、律にも銃とナイフを向けた。今更、何を悩むというのだろう。
しかしいま、静馬は確かに迷っていた。
律を殺したくない、そう思っていた。
彼と一緒に暗い淵の底を見てみたかったのだ。
人を殺したときのこと、遺族の悲しみを眺めたときのこと、またそのときどきに感じることを語りたかった。律はきっと、世間一般からかけ離れた反応を返してくれるだろう。
たった一人の理解者。
行っている事柄の忌々しさを思うと、そんな言葉を使うのは不謹慎にも感じるが、律ならば、自分の全てを受け入れてくれるような気がした。
いつか再び、彼を殺したいと欲求することもあるのだろう。
静馬の殺意は、親しい人間、好ましいと思っている人間に向けられる。事実、律にはプログラム以前から殺意を抱き、機会を伺ってきた。
しかしいまは、少なくとも現時点では殺したくなかった。
空気の密度が急に上がったような気がした。息苦しさに、呼吸が荒くなる。
愛しい恋人、親しい友人を目の前にした他の参加選手と同じように、静馬は迷っていた。
一人の少年として、プログラムの無情に翻弄されていた。
だがこれはプログラムだ。最後の一人にならなければ、生きて家には帰ることができない。
つくづくプログラムが残念でならなかった。
生き残れるのは優勝者だけ。
仮に、自分が優勝したとする。それは、律が死んでしまい、もう彼に暗闇を見せ続けられないことを意味する。
仮に、律が優勝したとする。それは、静馬自身が死んでしまい、もう殺戮を続けられないことを意味する。
二者一択。選べるのは一つだけだ。
思いは届いていたようだ。
律がふっと笑みを見せた。力が抜け切っているのだろう、微かに口角があがっただけの笑みだった。
その笑みに、律も彼の立場から同じことを考えてくれているんだ、と知れた。
黄昏時、教室は、世界は染め上げられていた。血のように暗い紅色が、二人を包んでいる。
律が身体を起こそうとするが、今の彼に残された力では困難なのだろう、うまく行かない。
意図なく身体が動いた。律の肩を抱え、手伝う。少年は、それを素直に受け入れた。近づいたことで、血と汗の匂いが増した。
小学校高学年といっても通る小柄な体躯に、童顔。眼鏡の奥の丸い瞳。右の目元に小さなほくろが見える。
少し前までは友人の一人に過ぎなかった。プログラムを経た今はたった一人の理解者だ。
静馬の中でさざめくような欲求が高まってきていた。
一度は失った欲望、切望。
……殺したかった。目の前の少年を手にかけたくて、たまらなかった。暗い闇の淵を見たくて、たまらなかった。
喉の渇きに、掠れたうめき声が漏れる。
たった一人の理解者。
もう彼のような人間は現れない。だけど、だからこそ、殺したい。
静馬の葛藤を満足げに眺め、律はポケットに右手を入れた。……取り出した手には小さな瓶が握られていた。瓶には希硫酸とかかれたラベルが貼られている。
彼が何度か右のポケットを撫でていたことを思い出す。
隙を見て反撃するつもりだったのだろう。
戦意放棄の証の後、律の視線が動いた。
斜め後方、検体を入れている棚を彼は見つめる。
「……律?」
はっと息を呑んだ。
彼の意図がわかり、驚嘆した。驚きは震撼へと移る。
小柄な彼は、検体を、ホルマリン漬けとなりガラス瓶に詰め込まれた検体を見つめていた。
ああ、君はどこまでも……。
感嘆に、天を仰ぐ。
ここで律が口を開いた。仮面を取って以来初めての台詞を落とす。
「君はとても、僕好みなんだ……よ」
好きな映画や本のジャンルを語るかのように、彼は殺戮者を語る。
律は皆までは話さなかった。だけど、分かった。彼は自身と殺戮者の未来を天秤にかけ、後者を選んだのだ。
ここに至るまでに、相当の苦悩があったに違いない。
希硫酸の小瓶が、彼がこの間際まで生を諦めていなかったことを、物語っていた。
全てには意味がある。
何かの本で読んだ一節だ。全てには意味がある。では、この出会いにも何かしらの意味があったのだろうか。
もう一度、律がひょいと肩をすくめた。おどけたような笑みを見せる。
そして、律の黒い双眸が、語りかけてきた。
……仕方ないね。死ぬのは怖いけど。出来ることなら、生き残りたいけど。だけど、これはプログラムなんだもの。生きて帰れるのは、たった一人なのだもの。
静馬もまた、肩をすくめて見せた。続けて、律の双眸に語りかける。
……仕方ないね。君みたいな人間は、理解者は、もう二度と現れない。だけど、僕は君を殺したくてたまらないんだ。
……仕方ないね。だって。
「これが、僕なんだ」
二人の声が綺麗に重なった。
静馬はすっと息を呑むと、黒刃のナイフを握りなおした。
マシンガンもあったが、最後は使い慣れたこのナイフのほうがふさわしいと感じた。ナイフの刃が夕陽を返し、紅黒く光る。
そして、いっそ緩慢といっていいくらいゆっくりと……大事に、大切に、律の心臓に突き立てた。
−雨宮律死亡 藤鬼静馬優勝−
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