OBR3 −一欠けらの狂気−  


029   1980 年10月01日14時00分


<三原勇気>


「律……」
 三原勇気は、戸惑いと一緒に幼馴染の名を廊下の木床に落とした。
 二階建ての木造校舎。馴染みのある木の香りが鼻をくすぐる。耳を澄ますと、下級生の嬌声や誰かが階段を駆け上る音が聞こえてきそうだった。……聞こえて欲しいと、プログラムなんて夢なんだと、思いたかった。
 勇気はもともと双葉の町に思い入れはなかった。
 幸い勉強はできていたし、家も裕福な部類だ。
 高校を卒業したら東京の大学に進学する、長野から出ると、当たり前のように考えていた。
 いつかこの校舎も懐かしく思うことがあるのだろうが、それだけだと思っていた。
 今は少し、切ない。
 爆弾が内臓された首輪に左手をやり、勇気は深いため息をついた。右手には支給武器であるグロック17も握られている。
 自然、涙がこぼれた。大柄な体躯、太い眉、整った男らしい容貌に涙は似合わない。だけど、こぼれる涙を止めることはできなかった。
 自分がこんなにも弱い生き物だったのか、と驚く段階はすでに終わっている。かと言って弱い自分と向き合うこともできず、勇気はただ涙をこぼす。

 先ほど見た光景が頭から離れない。
 律が「トイレに行く」と言って出て行ったとき、疑心暗鬼に襲われている現状では素直に送り出すことができず、ひそかに後を追った。果たして、律が校舎の中ではなく裏庭に向かったときは、身体が弛緩した。
 震える足を叱咤しさらに後を追い、そして、律が通信機のようなものを使い誰かと交信する場面を見てしまった。

 律からは支給武器は文化包丁だと聞いていたし、そんな機器を持っていたことも知らなかった。 
 専門機器を自前で持てるはずもない。文化包丁はどこかで手に入れたものだろう。
 ……勇気が考えたとおり、文化包丁は、律が母親が経営する喫茶店から持ち出したものだった。
「律に、裏切られた」
 口に出すと同時に、自己嫌悪に襲われる。
 それは、裏切っているのは自分も同じことだからだった。
 以前と同じように振舞ってはいるが、精神は落ちに落ちている。 
 優等生でスポーツ万能な、クラス委員長。正義感が強く、一本木。以前の自分は微塵ほどにも残っていない。
 日ごろ正論ばかり吐いていた須黒ユイを拒絶し、和久井信一郎を見捨てた。好きになりかけていた西村千鶴も助けなかった。
 付き合っていた新谷華が襲撃者……勇気は、襲撃者が誰なのか気がついていなかった……に追われればいいと考えた。
 プログラムまでの自身とは全く違う、小心で無様な思考、言動。保身。
 そして今は、律を盾にしてでも生きようと考えている。

 だけど。だけど……。
「どういうことだよお、律……」
 憮然としてしまう感情を抑えることができない。卑怯な憤りや焦燥が心を覆う。
 両脚が萎えたようになり、ふらつく。撃たれた傷のせいよりも、親友に裏切られたという思いが影響していそうだった。そんな自分がほとほと嫌になる。
 と、廊下の角を曲がったところで、勇気の心臓が軽く飛び跳ねた。
 目の前に小柄な学生服姿があった。
 靴紐が解けたらしく、勇気に背を向けてしゃがみこんでいる。
 
 瞬間、勇気は身体中の血液が沸騰する音を聞いた。目の前が赤く染まったようになる。
「律が悪いんだ! 俺を裏切った律がっ」
 唾を吐き、喚く。総毛立ち、声が掠れた。
 小柄な少年の細い首に両手をかけ、思い切り締め付けた。
「がっ」
「お前が悪いんだ!」
 爪で両手を引っかかれるが、力は緩めなかった。がりがりと手をかかれ、手甲の皮がめくれた。傷口から鮮血が流れた。それでも、力は緩めなかった。やがて抵抗がなくなり、ぐったりとした肉の感触が伝わってくるようになっても、力は緩めなかった。

 5分ほどそうしていただろうか、「勇気……」背後から掛けられた声に驚き、振り返る。
「り、律!?」
 中腰の体勢のまま見上げた先に立ってたのは、確かに雨宮律だった。
 学生服に身を包んだ小柄な体躯に、小学生高学年といっても通るような童顔。眉にかかる黒髪。丸いフレームのめがね、口元のほくろ。それは確かに、幼馴染の雨宮律だった。
「え、え?」
 戸惑い、目を落とす。
 やはり、小柄な学生服姿の少年がそこに横たわっていた。
 ……律が二人っ?
 幻でも見ているのか、気でも狂ってしまったのかと、混乱を極めていると、「堺?」律が声を投げてきた。

 その声に少しに落ち着きを得、もう一度目を落とす。
 小柄な体躯。学生服。ここまでは律と同じだ。だけど、律よりも髪が少し長い。今は恐怖と苦痛にゆがんでいるが、律よりも整った顔立ちが伺える。眼鏡をかけていない。口元のほくろがない。
「堺……」
 そう、それはクラスメイトの堺篤史の亡骸だった。
 体つきが似ていたので、間違えたのだ。
 殺したのは律ではなかった。まずは、事実に安堵する。しかしまた別の事実がすぐに勇気を追い詰めた。
 ……人を! 人を殺した!
 ついに堕ちるところまで堕ちてしまった。
 心臓のドラムが滅茶苦茶に叩かれていた。くらくらと眩暈がする。息がつまり、窒息しそうだった。
 全力疾走をした後のように身体中にびっしょりと汗をかいていた。その汗が急速に冷え、身体と心が凍える。
「襲われたの?」
 受ける問い。
「え?」
「堺に襲われた……の?」
 律の声は震えていた。
 本当にそう思ってくれているのか、何かの狙いなのか、判断がつかなかった。少し前までなら信じられたが、校舎裏で誰かと交信していた姿が頭にちらつき、幼馴染への信頼を消し去る。
 だけど、律の声にしがみ付くより他ならなかった。

「ああ……。抵抗して、なんとか……」
 乾いた声を押し出す。
 同時、身体が揺らいだ。
 ……倒れる。
 後ろからぐいと引っ張られたような感覚。律が何かを言ったが、よく聞こえなかった。ヘッドフォンをつけて音楽を聴いているときの周囲の音のようだ。

 そして、視界が一度くるりと回り、暗転した。



−堺篤史死亡 03/10−


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バトル×2
三原勇気
律の幼馴染。成績優秀でクラス委員長をつとめる。一本気な性格だったがプログラムを経て次第に変化しつつある。