OBR3 −一欠けらの狂気−  


021   1980 年10月01日05時30分


<三原勇気>


 突然鳴り響いた音に、びくりと千鶴が肩を上げる。
「な、なに?」
 華の声が震えていた。
 続く、銃声。
「勇気……」
 華が不安げに勇気の顔を見た。
 音が、近づいてきている。
 事実に、勇気の身体も戦慄せんりつする。

 そして、三度、銃音が響いたかと思うと、がんっと鈍器を叩きつけるような音がし、正面の大窓に血糊の着いた手の平が打たれた。
 鮮血が窓ガラスを舞台に舞い、悪趣味なポップアートを描く。
「うわっ」
 勇気は思わず上体をかがめていた。
 華と千鶴の甲高い悲鳴が、勇気の耳に突き当たる。 
 続いて、窓の向こうで、外の景色を切るように何かが斜めに横切った。
「な、なんだ……?」
 今目撃したものを己に問う。
 ただ凄まじい嫌悪感が先にたち、答えを見出せない。
 しかし、勇気の脳細胞は、まるでシャッターを押されたカメラのように鮮明に記憶していた。
 側頭部が半壊していた。壊れた頭蓋から、ずるりと肉色の何かが毀れていた。半開きの口。血だらけの顔面。不思議に眼球は汚れておらず、白目だけが強烈に浮いて見えた。

「い、いまのっ!?」
 上ずった華の声に、我に返る。そして、麻痺しかけた勇気の脳裏に、答えが追いついてきた。
「ああ、和久井だ……」
 横切ったもの……それは、人体だった。
 変わり果てた姿だったが、間違いなく、つい先ほど喫茶店から出て行ったばかりの和久井信一郎だった。
 全身の産毛がざわざわと逆立つのを感じた。続いて、手足が震えだす。四肢から始まった震えはすぐに体芯に及び、勇気の心までを蝕んだ。
 驚愕と恐怖のあまり、膝の力が抜けた。
 
「あああああっ」
 すぐ近くで沸いた悲鳴に、もう一度驚く。
 千鶴だった。立ち上がり、両手で身体を抱くようにして震えている。血走った両目から涙が毀れていた。
「西村、落ち着けっ」
 声掛けもむなしく、千鶴が駆け出した。
 正面に信一郎を襲った誰かがいると考えたのだろう、通路を塞ぐ形で座っていた勇気らを突き飛ばし、バックヤードへと駆けていく。
 しかし、一拍ほどを置いて、連撃音が彼女を襲った。
 千鶴の華奢な身体が吹っ飛んで来る。仰け反るような体勢で、千鶴は壁に打ち付けられた。勇気の目の前で、彼女の身体がバウンドした。
 血の匂いと一緒に柑橘系の香りが漂った。支給武器の香水を、銃弾で割られたらしい。
「ひっ」
 華が悲鳴を短く切り、「どういうことっ? 鍵は……」続けた。
 裏口の鍵は確かに閉めたはずだった。千鶴はまだ裏口の戸にたどりついていなかった。
 ……誰が、どうやって、ドアの鍵を開けたんだ?
 華と同じ疑問を抱く。

 千鶴の呻き声がした。
 ほんの一メートルほど離れた通路に、彼女は横たわっていた。じわり、千鶴の身体から血が流れ出る。驚くほど多量の出血だった。あっという間に血の池が完成した。
 まだ、生きている。だけど、長くはないだろう。推察に、恐怖する。
 どうしてドアの鍵が開いてんだ。事実に、困惑する。
 眩暈がしそうだった。
 鍵を開けたのが親友の雨宮律だったとは知らず、勇気もまた、呻いた。


「た、助けないと」
 華がバックヤードに向かおうとする。
 ……何を言ってるんだ?
 半ば呆れながら、思った。
 ……何をしようとしているんだ、この馬鹿女は?
 続けて、思った。

 華の手を反射的に握り、彼女の歩を止める。振り返る華に、「逃げるんだっ」唾を飛ばした。
 ……西村は既に半死だ。彼女を守って何になるというのだろう。そんなことよりも先に、自分の命だ。生き残ることを優先しないと。
 利己的な思考。
 心の隅がチクリと痛んだ。
 ……俺は、西村のことが気になっていたのに。好きになりかけていたのに。なのに、なのに……。
 頭を振り、迷いを捨てる。
「だけど……。だけどっ」
 惑う華に、「西村は、もうだめだ!」大声をぶつける。華は殴られたような表情をした。

 震える手ももどかしく、正面扉の鍵を開ける。
 生ぬるい風を感じた。鼻先に鉄くさい血の匂いが突きつけられる。
 入り口ポーチの端に、和久井信一郎のひょろ長い亡骸が横たわっていた。白目を剥いた血まみれの顔。銃弾で頭を割られたせいだろうか、とろんとした表情で事切れていた。
 彼が倒れて数分ほどしか経っていないのに、あたりには血の匂いが充満していた。
「死ぬのか?」
 ほとんど無理やり華を連れ出しながら、口走る。
「俺は、死ぬのか?」
 駆ける足がもつれそうになる。
 
 連撃音が勇気らを追う。
 数メートル離れた地面に着弾し、土ぼこりを舞わせた。
 華と二人、逃げているうちに、左側方に雑木林が見えた。迷わず駆け込む。遮蔽物が少しでも多いほうが逃げる身には有利だ。
 しかし、銃弾は勇気らに届いた。
 ぱららららっ、撃発音と同時、右太もものあたりに鋭い痛みを感じた。脚が萎え、前のめりに倒れる。
「きゃっ」
 華も右肩に被弾した。彼女の制服が鮮血に染まる。

 腐葉土の地面に倒れこんだ拍子、握っていた手が離れた。
 勇気も華も、地面に伏した体勢になる。そして、顔だけを上げて、数秒間見詰め合った。華の充血した瞳。うつむき加減の顔を髪が覆っているが、目だけは不思議によく見えた。
 先に現実認識をしたのは、勇気だった。
 俺と違って、華は脚が無事だ。ということは……。
 勇気の考えを読み取ったのだろうか、それとも華自身もそう考えたのだろうか、華の血走った眼が見開かれた後、すっと逸らされた。

 誰かを裏切った者は、別の誰かに裏切られる。誰かを見捨てた者は、別の誰かに見捨てられる。
 何かの本で読んだ一説だ。
 ……俺は、西村を見捨てた。なら、俺を待ってる未来は……。
 見たくなかった。
 見たくなかったので、目を瞑った。
 数秒ほどの間の後、かさり、枯れ葉が擦れ合う音がした。華が動いたのだ。そして続く、立ち上がり、駆けていく音。勇気から何か大切なものが逃げていく音。

 閉じたまぶたをこじ開け、涙がこぼれた。
 弛緩しそうになる身体。その身体を叱咤し、無理やりに動かす。ほふく前進に近い動きで、藪に入り込んだ。
 そして、胎児のように身を丸くし、藪の中に潜んだ。
 身体が震えるのは、恐怖からだけではなかった。無様で情けなくてならなかった。穢れた自分を消し去りたくてならなかった。
 ……何をしているんだ。こんなの、俺じゃない。こんなの、三原勇気じゃない。俺はもっと、俺は……。
 勇気の心の奥底で、何か氷のようなものが割れる音がした。
 折り目正しい、優等生。弱きを守る、熱血漢。悪を許さない、正義の人。
 虚像が割れ、崩れていく。

 まるで、底なしの沼に呑み込まれていくような気分だった。
 黒い泥土が身体に絡みつき、真っ暗な淵に引きずり込んでくる。

 今の自分を穢れていると思う。
 それは、勇気がまだ堕ちきっていない証拠だった。勇気にまだ、彼が信じる正義が残っている証拠だった。
 しかし、それでも彼は、祈る。

 ……どうか。
 彼は、神に祈る。
 ……どうか、襲撃者が華を追いますように。


 
−和久井信一郎死亡 07/10−


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バトル×2
三原勇気
律の幼馴染。クラス委員長。一本気な性格だが、恵まれているゆえか心の機微に疎いところもある。新谷華と交際している。