<陣内真斗>
「じゃ、休憩して、三十分後に再開」
理学療法士
が手を叩き、ぽんと音を出した。割合大きな音になり、リハビリステーションに響いた。
「もう少し」
真斗が顔をあげると、療法士が短く刈り込んだ髪を指先でかき、「熱心なのはいいことだが、無理は禁物と何度も言っただろう」渋い顔をする。
療法士は30を少しすぎた、気安い雰囲気の男だ。
真斗を担当する医療チームはほぼ固定なので、理学療法は主に彼の世話になっている。
ひょろりとのっぽで人好きのする柔和な顔立ち。
どこか、室田高市や城井智樹を思い出させる容貌で、彼らが死なずに成長したらこんな風になっていたのだろうかと、慣れるまでは胸が痛んだものだ。
年は明け、1月半ばとなっていた。
義手の接続や調整は済み、ある程度は動かすことが出来るようになったが、完全回復には遠く、依然運動麻痺も残っていた。
カリキュラムを立てられ、病室からリハビリステーション
に通う毎日だ。
まだ自分の足で立つこともできないので、車椅子も使っている。
襟付きのスポーツシャツとジャージのズボンという姿。
最近はリハビリの日々なので、昼間はほぼこの格好だった。
中学時代は文化系の部活で、高校は帰宅部決め込みと、運動とは無縁の生活をしてきた真斗には少し新鮮だ。
療法士のそばには姉の亜希子と深沼ミライ
の姿がある。
休みの日にはこうして、リハビリの手伝いに来てくれているのだ。
結局、弱音を吐いたり、泣いてみせるのは柄ではなく、したことは無かったが、リハビリの手伝いをすると言ってくれた姉の申し出は積極的に受けていた。
それでいいと思う。リハビリを支えてもらうのも、一つの勇気だ。
リハビリのおかげで、姉と過ごす時間は増えたが、二人の距離が極端に縮まったということもなかった。
これは、主に真斗の性格によるものだろう。亜希子も内心、べったりと寄りかかられないことに、ほっと安堵しているように見える。
人は、献身一方ではいられない。
弟が人を殺して来た恐怖とは別に、強く依存されることへの恐怖心が彼女の中にあるはずだ。
ここに来て尚、よそよそしい関係なのかもしれないが、これが二人とっての最適な距離感なのだろう。
母親の牧子の当てつけともいえる自殺未遂は、かなり堪えた。母はすでに退院し復職もしているのだが、真斗の見舞いにはまだ一度も来ていなかった。
母さんとはもう駄目かもな、と落胆はしたが、冷静に受け止めもしている。
少なくとも姉の亜希子とは、自分なりにではあるが、関係を修復できたのだ。それ以上を望むのは贅沢だ。
遠藤沙弓のことも聞いていた。悲しいけれど、彼女とはもう会うことはないだろう。
あるいは、母とも。
ただ、亜希子は諦めていなかった。
いつか分かってくれる日が来ると、母親と真斗との仲立ちをしてくれている。
いずれ、自分も動かなくてはいけないだろう。過程では傷つかなければいけないだろう。傷つくだけ傷ついて徒労に終わる可能性も高いのだろう。
そのときの痛みを思うと、胸が苦しくなる。でも、やってみる価値はあるのかもしれない。真斗は、そんな風にも考えていた。
リハビリでかいた汗を、ミライがタオルで拭いてくれる。
彼は深沼アスマの実の兄だった。深沼家の抱える事情の概要は亜希子から聞き、当時の報道記事から補足したので、おおよそは把握している。
凄惨な家庭環境、苦労もしてきているだろうに、ミライは人懐っこい笑みを見せる明るい人物だった。
また、細い目じりの下がる瞳が、アスマそっくりだった。
同じプログラムで、アスマは死んだ。
色々思うところもあるはずだが、そんな陰は一切見せず、時折姉についてやってきて、にこやかにリハビリの手伝いをしてくれる。
一度、二人きりになったときに、「僕が言うのも何なんですが、辛くないですか?」と訊いてみたことがある。
そうしたら、「君は君、アスマはアスマだよ」と返し、「亜希子さんへのポイント稼ぎの意味もあるから、気にしないでいいよ」と茶化して笑ってきた。
どうやら、ミライからアタックして、亜希子と『お付き合い』をしているようだった。
姉は、前のプログラムのあと、婚約者との関係を失っている。幸せになってくれたら、と思う。
真斗は昼食を済ませていたが、亜希子とミライがまだだったので、この休憩時間のうちに済ませることになった。
食堂に向かった二人を見送った後、真斗は車椅子を操作し、リハビリ室から出た。リノリウムの廊下は、落ち着いたブラウン色。壁と天井は淡いクリーム色をしている。
広く開け放たれた入り口をくぐり、談話室
に入る。
様々な患者に対応するために高さを変えたテーブルがいくつか並んでおり、部屋の前後には大型テレビが一台ずつ設置されている。入院患者や見舞い客が思い思いにくつろいでいた。
一角に設置された自動販売機に近寄り、スポーツドリンクを購入した。
まだ、プルタブを開けることもペットボトルの蓋を回し取ることもままならないので、カップに注がれるタイプのものを選んだ。
車椅子患者にあわせたテーブルにつき、カップを口にする。
と、保持を失敗し、シャツに少しかけてしまった。
テーブルの墨に置かれている紙ナプキンに手を伸ばそうとしていると、ふっと目の前が陰った。
ゆっくりと見上げる。
真斗のそばにキャップを目深にかぶった一人の少年が立っていた。ジーンズ、ストライプ模様のトレーナーを着込んでいる。右手に包帯が巻かれ、添え木とともに三角巾で吊っていた。
そばかすの浮かぶ、白い肌。全体に色素が薄く、キャップから覗く髪も、真一文字の眉も切れ長の瞳も、全て茶色がかっていた。
……木ノ島俊介
だった。
*
数ヶ月のことだが、俊介の外見は少し変化していた。
髪が伸びたのはもちろんだが、痩せぎすだった身体が随分がっしりとしたように見える。鍛えているのだろうか。しかし、その反面、顔色は冴えなかった。
まぁ、とりあえず。
「久しぶり」
真斗は穏やかに声をかけた。
軽く眉を上げ、俊介が意外そうな顔をする。「驚かないんだな」
「いつか来るだろうなと思ってたから」
「そ、か」
俊介が紙ナプキンでシャツについた水滴を拭ってくれ、「さっき、リハビリしてるところを少し見させてもらったよ」と続けた。
リハビリルームは廊下側の窓を大きく取ってあるので、外から見学できるようになっているのだ。
「頑張ってたね」
なんだか照れくさく、黙ってドリンクカップを右手で弄んだ。
気がつくと、俊介の目が義手に釘付けられていた。
義手には、外観を人手型にした装飾義手と、機能を重視した能動義手があるが、真斗は後者を選んでいた。鍵爪のような造形をしている。
まだ訓練の途中で充分に機能は引き出せていないが、慣れればかなりの動作をカバーできるらしい。
外見の目立たない装飾タイプの義肢にしようかと相当に悩んだものだ。
だが結局、機能を取った。
一年前は、人に肌すら見せることが出来なかった。
機能を取ることが上位にあるわけではないことは充分分かっていたが、真斗個人としては、格段の変化、成長だ。
……開き直りが、外見にも及んだだけなのかもしれないが。
開き直り、人を殺してでも生きようと願った二度のプログラムを思い返し、うつむいた笑みをする。
俊介が、強張った声を押し出してくる。
「蘇生って……、元通りの身体になるわけじゃないんだな」
「ああ。でも、生きてる」
姉に向けた言葉を繰り返し、「このリハビリを続ければ日常生活には戻れるよ。いずれ、自分の足で歩けるようにもなる」と続けると、俊介はほっとした表情を見せた。
その顔がすぐに曇る。
「俺が……一度、殺したんだな」
「仕方ないよ、プログラムだもの」
関係の無い人間が聞いていれば奇異に思うであろう会話。
「時々……、あのときのことを夢に見るんだ」
俊介はそう言って、自分の身体を抱きしめ、ぶるぶると胴震いをした。
「俺も、悪夢を見るよ」
殺された瞬間の絶望感や恐怖感は今なお真斗を苦しめている。しかし、人を殺した恐怖はそれ以上だった。
俊介も当たり前の神経と感覚の持ち主だ。
罪悪感や恐怖感に苛まれていることだろう。死闘の記憶に苦しめられていることだろう。それは、真斗のよく知っている感覚だった。すっかり頬のこけた彼の顔を見つめ、真斗はそっと息をつく。
「あの後、矢坂を?」
「ああ、俺が殺した……。一人、生き返してみても、悪夢は消えないものだな」
自嘲気味に俊介が笑ったので、真斗は少しどきりとした。見たことも無い俊介の表情だった。
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