<矢坂彩華>
ずるり、何かを引きずるような音が聞こえた。
彩華
は重いまぶたをこじ開け、上半身を床から起こした。座った体勢を続けることもままならず、埃のたまった用具室の床に横たわっていたのだ。
だるく、熱っぽい。負った傷や疲弊に身体を蝕まれていた。
窓を塞
いでいる木板の隙間から漏れる雷光が、闇を切り裂く。
廃校の際に大部分は持ち出されたのだろう、物がほとんど残っていない木製の棚が左右の壁を占めている。片方の棚に身を保持する。
また、音がした。
嵐のざわめきに慣れた耳に、確かな異音が届く。
光が漏れることを恐れて懐中電灯はつけていないので、支給の腕時計を見ることが出来ない。体感では、最後の銃撃音から2,30分は経っていた。
陣内だろうか? それとも……。
憔悴した呼吸が、壁や棚に吸い込まれていく。唇を噛み締め、身体に活を入れた。
音が、用具室の前で止まった。あちらは懐中電灯を使っているらしく、戸の隙間から光が漏れ入ってくる。
血の跡は『ブレイド』で取り除いたが、埃や泥の乱れまでは直せない。それに、人の気配というものは、どんなに押し殺しても消しきれないものだ。
包丁を握り締め、戸に向ける。
ややあって、戸が軋んだ開けられた。軋んだ音を立てる。
光を当てられ、まぶしさに目を細める。
逆光の中、一人の少年が立っていた。
赤黒く血に染まった制服のズボン、スニーカー。黒いジップアップシャツも血に濡れている。長めの黒髪。うつむき加減で顔はよく分からないが、黒縁眼鏡が見えた。
「陣内……」
それは確かに、陣内真斗
の姿だった。
ああ、と喜びに満ちた息を吐き出し、目を瞑る。持っていた包丁が床に落ちた。
と、まぶたの向こうで、何かが傾ぐのを感じた。
「え?」
投げる反問。見開かれる瞳。
それに併せるかのように、真斗が前のめりに倒れこんだ。
そして、真斗の後ろから、もう一人少年が現われた。その手に持っていた懐中電灯を棚の上に置く。高い位置から光が落ち、用具室を照らした。
暗闇の中、真斗の身体が浮かび上がって見えた。
倒れた拍子に眼鏡が飛んだのだろう、閉じられた両の眼が素通しに見える。肌は青白く、血の気が感じられない。
次いで、彼が左腕、肘から下を失っていることに気がつき、吐き出した息を呑んだ。出血はほとんど止まっており、切られてからそれなりの時間が経っていることを感じる。
そして、真斗が既に死んでいることを知る。
がん、と殴られたような衝撃が身体に走った。衝撃は、彩華の身体から希望を毟り取って行く。
絶望的な気分のまま、相手を見やる。
立っているのは、ジーンズに青いパーカー姿の木ノ島俊介
だった。
彼もまた傷ついていた。わき腹から流れた血がジーンズの生地を濃紺にしている。色素が薄く、茶色がかった短髪。白い肌。そばかすの散った頬。
鮎川霧子の姿は見えない。
「鮎川は?」
試しに、訊いてみた。
俊介が軽く顎先を上げ、震える。
応えはなかったが、彼女が死んだことを悟った。
では、残り二人。生き残っているのは、自分と、木ノ島俊介のたった二人なのだ。
「随分と……悪趣味ね」
彩華の投げかけに、俊介が怪訝な顔をする。
「陣内が勝ったのかと思った」
「そんなつもりは……。ただ、一緒にいたいかな……と思って」
『アストロボーイ』の力があるとはいえ、傷ついた身体でここまで運んでくるのは重労働だったことだろう。俊介らしい誠実さだった。
「ご苦労様。……だけど、私と陣内はそんなじゃ、ないわよ」
全身の力が抜け、まぶたを開けることすら苦心している状態なのに、不思議に口だけは回った。
言ってから、つい先ほどの悪趣味云々と内容が合わないことに気がつく。
気にせず、続けた。
「さて……。そうとなれば、生き残る努力をしましょうかね。……アタシを生き返してくれれば、ありとあらゆることをしてあげるわ」
艶っぽい視線を向けると、「思い切りがいいね」俊介が驚き、そして、呆れたような声を出す。
「言ったでしょ、アタシ、利用できるものは、何でも……利用する主義なの。死んだ陣内に、用はない」
「冷たいんだ」
「現実的と……言って欲しいな」
次第に発声することすら、億劫になってきていた。
懐中電灯の光は、木ノ島俊介の顔の半分を照らしていた。その半分が、また驚いたような顔をした。今度は、悲しげな表情が続く。
「なら……」
「え?」
「なら、どうして泣いているんだい?」
言われて、自分が涙を流していることに気がついた。
俊介が銃を構えた。ぶるぶると手が震えている。人を殺すことの意味、生き残ることの意味を十分に承知しており、恐怖している手だった。
しかし、それでも、生きたいのだ。彼もまた、生きたいのだ。
指輪は真斗に預けたままだ。包丁はあるが、身体に力が入らない。立ち上がり、争うことができない。
彩華は右手をあげ、頬に伝う涙を指先に掬い取った。
冷たいような熱いような不思議な感触。これを最期の知覚にしたいと考えたのだ。そして、視線を、真斗の亡骸へと落とす。
唐突に、彼が死んだときのことを考えた。
きっと、傷つき、片腕を失っても、最期まで諦めなかったのだろう。
陣内真斗とは、そういう男だ。
……なのに。なのに、アタシが諦めてどうするっ。
強い思いを噛み締め、唇を噛み締める。歯が食い込み、唇が切れた。鉄錆びたような味覚が口腔に広がる。
緩慢な動きで包丁を拾い上げ、その切っ先を木ノ島俊介へと向ける。
投げつけることも切りつけることも、もはや出来ない。
だけど、戦意あることを誇示は出来る。諦め、死んだのではなく、最期まで戦ったのだと、真斗と同じく、最期の最期まで戦ったのだと、誇示は出来る。
望み通り、俊介の構える銃が火を噴くまで、弾丸に額を撃ちぬかれるその瞬間まで、彩華は戦意を失わなかった。
−陣内真斗・矢坂彩華死亡 木ノ島俊介優勝−
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