<鮎川霧子>
風が強まり、炭焼き小屋にも重い雨が降り込んでくる。
あたりはすっかり暗くなっており、和の顔色が見えなかった。
と、稲妻が走り、ほとんど間をおくことなく、がらぁん! 雷鳴が轟いた。
暗闇に浮かび上がった、和の満足げな表情。上半身だけを起こし、炭釜に背を預けた体勢で、和はたしかに微笑んでいた。
この表情に符合する言葉は何だろうと、考える。
……恨みを晴らした。
そうだ。この表現が正しい。
和が支給の懐中電灯の電源を入れた。地面に上向きに立て、薄い明かりに照らされたアスマの死に顔をじっと見つめる。
「そんなに……憎んでいたの?」
霧子は、粘つく喉から声を押し出した。
「そうだね。そう見えるのなら、そうだろうね」
和が素っ気無く答えた。まるで、たいした問題ではないと、答えるに値しないと言いたげだった。
秋里和は、深沼アスマを憎んでいた。
アスマの父親の藤鬼静馬に襲われた。地下牢につながれ、虐待を受けた。死ぬような目にあわされた。
結果、右足を不自由にし、心臓を損ねた。
「なんだか、成長も鈍っちゃってさ。こんな子どもみたいな身体のまま……」
たしかに、和の身体は過剰に幼い。
事件によって一年休学したそうだから、実質的には高校ニ学年だ。和の子どもじみた体格はとても16,7には見えなかった。
もちろん、人の成長はそれぞれだ。成長期を経ても小柄な人は、いくらでもいる。医学的に見ても、心理ショックで身体の成長が止まるというのは馬鹿らしいことだろう。
だが、和にとっての事実は、現実的見解の外にあった。
事件後の混乱から抜け出したあと、理不尽に傷つけられた身体と心、その両方を抱えた和は怒りの矛先を探したに違いない。
しかし、その頃には加害者の藤鬼静馬は獄死していた。
癌疾患で、藤鬼は事前に病状を把握していたらしい。
死ぬ直前、なぜこのような事件を起こしたのかと聞かれ、「最後に思いっきり楽しみたかった」と笑ったそうだ。身を蝕む病は、凶行に至る心理に多大な影響を及ぼしたのだろう。
藤鬼静馬は既に死んでいた。
では誰を怨めばいい?
……すぐそばに格好の標的がいた。
藤鬼の実の息子である、アスマだ。
和の両親は、傷ついた息子を藤鬼から離そうとした。息子のアスマから離そうとした。当然の判断だ。親ならば、事件のことをできるだけ忘れて生きてほしいと願う。
あえて記憶を刺激させようとは思わないに違いない。
それは、アスマの母親としても同じ思いだろう。
霧子だって、あの話を聞いたとき、どうして二人は離れなかったのだろう、と疑問に思った。
なのに、和とアスマは親交を続けた。あまつさえ、プログラム優勝者が多く在籍するぶどうヶ丘高校に二人して進学した。
何のために?
「アスマは……。前のまま。事件の……前のまま、友達付き合いが続くと……。これっぽっちも信じて疑わなかったんだ」
和が誰に言うでもなく、一人ごちる。
「だから、僕は、アスマの望みどおり、一緒にいてやった」
炭窯に背もたれ、空を見つめたまま、濡れた唇を動かす。
痛快、という表情だった。
何のために?
何のために、和は親交を続けた?
「深沼が事件のことを忘れないようにさせるために」
胸のざわめきそのままに、霧子は言う。
「そう。……事件のことを……忘れないようにさせるために」
和が霧子の言葉を繰り返し、「忘れさせてなんか、やる、もんか」一言一言区切るように強い口調で続けた。血を失い、青白くなっていた顔に朱が入る。
事件のあと友人付き合いをやめなかったのも、同じ学校に進学したのも、その学校にプログラムと関わりの深いぶどうヶ丘高校を選んだもの、全てそのためだ。
事件のことを忘れさせないように。ずっと苦しみ続けるように。
アスマ自身も被害者だが、加害者の息子である彼の立場は非常に複雑だ。
心の表裏に、和に申し訳ないという思いを持っていたに違いない。
アスマの心の器に積み上げられた、和への罪悪感。和はその罪悪感が消えないよう、ずっと継ぎ足し、積み上げ続けてきたのだ。継ぎ足し続けることで、恨みを晴らそうとしたのだ。
アスマが父親の心理を知りたがっていたと、和は言った。
……本当だろうか。本当に、アスマが自分から知りたがったのだろうか。
アスマがプログラム優勝者である高熊修吾に近づいたのは、父親の心理を探るためだったと、和は言った。だから一緒になって悪さをしていたと、言った。
……それは、本当に、アスマの意志によるものだけだったのだろうか。
よりプログラムに近いほうへ。より事件のことを思い出すほうへ。和は常にアスマを誘導し続けてきたのではないだろうか。
もちろん、無から有を作り出すことは出来ない。
父親の心理を知りたい。それは、息子として当然の思いだ。アスマの胸のうちに欠片もなかったということはないだろう。だけど、事件のことを思い出す辛さから逃れたいという思いも、当然あったに違いない。
きっと、アスマ一人なら、どこかで諦めていた。
しかし、和が諦めさせなかった。
探り続けるように、記憶を刺激し続けるように、和が仕向けていたのだ。
霧子は何かの本で読んだことがあった。
忘却。それは、人が人として機能するために、非常に重要なシステムだ。
誰だって、生きていれば、辛い目や悲しい目にあう。その記憶を例え片時でも忘れることが出来るから、人は歩んでいける。
和はその当たり前のシステムを妨害した。
アスマは事件のことを、自身の父親が親友にしたことを、一時も忘れることができなかった。
だから、あんなにも歪み、不安定になっていったのだろう。
プログラムに巻き込まれたいまも、そうだ。和の言動は、全てアスマを苦しめることを目的にしていた。
開始早々、霧子はアスマに不意を突かれた。
和が霧子がプログラム優勝者だと嘘をついてくれたおかげで助かったのだが、あれも、後々霧子を利用できると踏んだからに違いない。
実際、霧子はプログラム優勝者として振舞わされた。
アスマと和の過去を話される相手として使われた。聞いている間、「どうしてこんな話をするのだろう?」とずっと疑問だった。あえて話すことなどなかったのに。
あれは、事情を知っている人間を増やして、アスマの罪悪感を煽るためだったのだ。
あの話をしたとき、和は苦しんでいるアスマを見ると嬉しいと言った。
驚いた霧子に、「だってそれは、アスマがまだまともだって証拠だから。普通の人間だって証拠だから」「僕もアスマも怖いんだ。アスマには、おじさんの血が流れてるから」と続けた。
殺人鬼の遺伝子。馬鹿げた話だ。だけど、馬鹿げた話ほど人を苦しめるものはない。
アスマは父親と同じ血が流れていることを、誰よりも恐怖していた。事件の記憶だけではなく、その恐怖心をも、和は刺激し続けたのだ。
見えるようだった。
校庭の片隅で、寮の部屋で、和がアスマに「関係ないよ。アスマはアスマだ」と言っているところが見えるようだった。「僕は、殺人鬼の遺伝子なんて信じないよ」と言っているところが見えるようだった。
なんて優しい言葉だろう。
恐怖するアスマの心を慰める、なんて優しい言葉だろう。
アスマは深く感謝したに違いない。そして、変わることなく、恐怖し続けたに違いない。
誰かが辛い思いをしているとき、周りの人間は、ときにそっとしておくという選択肢を取る必要に迫られることがある。おそらく、これもそのケースだった。和も承知していた。
承知していたからこそ、事あるごとに、この話を持ち出した。
「いや……」
ここで、霧子は、強く頭を振った。
傷と出血に、ぜいぜいと息を上げている和を信じられないような思いで見つめる。
いや、もしかしたら、先に和が言い出したのかもしれない。
事件後すぐ、幼いアスマが父親から受け継いだDNAを恐れだすよりも早くに、「そんなことないよ」「アスマはアスマだよ」「殺人鬼の遺伝子なんて、僕は信じないよ」と和が言い出したのかもしれない。
僕は信じない。
……だけど、あるかもね。
後半を口には出さなくとも、そうアスマが感じるように仕向けることは容易
い。ほんの少し、「僕は」を強調して話せばいい。話したあと、そっと目を伏せればいい。
和の童顔には満足げな笑みが乗っていた。その笑みに、推察は間違いではないと悟る。
「どうして、そこまで……」
身体が震えた。アスマに銃を突きつけられたときよりも、堀田竜の無残な亡骸を見たときよりも、身体が震えた。
遅れて、ああ、と息を吐く。
……そうだ。
仲谷優一郎を救ったときもそうだ。和は、仲谷優一郎が自分の友達であると過剰にアピールしていた。
ダメだからね。仲谷は僕の大切な友達だからね。傷つけちゃ、ダメだからね。
アスマは、友情に対する独占欲が強かった。あるいはそれも、和の誘導の賜物によるものだったのかもしれない。
和に煽られ、プログラムという状況に煽られ、果たしてアスマは仲谷優一郎を殺した。
あれも、アスマを苦しめるためだったのだ。
アスマに仲谷優一郎を殺させる。あとは、その前で盛大に泣いてやればいい。そして、許してやればいい。恨み言を続けられるよりも、許されるほうが、より苦しいだろうから。
あのとき、アスマは笑っていた。仲谷優一郎を取り上げ、和を独占できたことを、アスマは喜んでいた。しかし、心の底で、そんな自分に恐怖していたに違いない。
それも全て、和の筋書き通りだった。
*
降り込む風雨が、アスマの身体をぐっしょりと濡らしていた。雨によって、煤
入りの泥が浮き上がり、横たわるアスマの顔を汚す。
父親から受け継いだ血を恐れていたアスマ。自分はまともじゃないのでは? と苦しんでいたアスマ。
喜びなよ……。
そっと、彼の亡骸に語りかける。
喜びなよ、君はまともだった。まともだったから、当たり前の人間だったから、罪悪に苦しんでいたんだ。
−深沼アスマ死亡 05/17−
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