<仲谷優一郎>
じっとりとした沈黙が満ちた。
春奈はもう口を閉ざしてしまっている。優一郎も次の句を継げないでいた。
しかし、優一郎には言いたいことがあった。彼女に告げたいことがあった。だけど、引っ込み思案の彼はなかなか言い出せないでいた。
ちちちと、どこかで鳥の鳴く声がする。
風がさらりとあたりを撫で、群生する熊笹がさわさわと音を立てた。
1,2,3……。
ゆっくりと10を数える。
「あ、あのさ」
「え?」
「えと……」
思ったことをうまく言葉に変換できず、さらに10を数える。
そして、やっとのことで意を決して、優一郎は言った。
「だ、駄目なんかじゃ、ないっ」
思いがけず大きな声になって、大きな声がでたことに自分で驚き、また赤面した。耳と頬が熱い。鏡に顔を映せばきっと熟したトマトのような色をしているに違いない。
「駄目なんかじゃ、ない」
繰り返し、そして、続ける。「悔しかったんでしょ? 何でも出来る野口さんを見て、悔しかったんでしょっ?」
先ほど、春奈は、悔しいけど志麻に比べたら全然駄目だと言った。だから、彼女に支配されてもいいと言った。
怪訝な顔をしている春奈の顔を、きっと見据える。
瞳のプールを泳ぎそうになる目を、しっかりと固定し、彼女の顔を見つめる。
今度は彼女が視線をそらした。
「本当に、駄目な奴は……。本当に駄目な奴は、悔しさなんて感じないんだ」
かつての自分がそうだった。
誰よりも下位なのだから、軽んじられても苛められても仕方がないのだと、全てを諦めていた。
悔しさなんて感じなかった。
だって、誰かに比べて劣ったとしても、どんなにひどい目にあっても、それは当然のことだったから。最下層の人間である自分には当然のことだから。
ぶどうヶ丘高校に来た優一郎は、それが間違いだったと知っている。
ライバル心。
抑圧されていた中学までの優一郎には無縁だった言葉だ。
そのライバル心を、優一郎は、同じ美術部の秋里和にひそかに感じていた。
和は子どもの頃から絵画教室に通っていたということで、絵の基礎ができていたし、教室上がりにしては珍しく、独自の世界観を持っていた。
彼の描く絵は風景画にしても抽象絵にしても、みなどこか陰鬱で、影があった。
その影が独特の『味』となり、彼の絵を際立たせるのだ。ただ風景を描いても、和の絵には物語りが見えた。
比べて、優一郎の絵はただ正確なだけだった。ただ、そこにあるものを精密に写し取るだけだった。写し取るだけなら、写真機にだってできる。
これは、優一郎の被害妄想ではない。
入部したての頃、美術教師に言われ、課題絵を提出した。
そこで和の絵を初めて見て驚かされたのだが、美術教師も驚いたらしく、また才能ある新入部員の入部に喜んだらしく、その後に見た優一郎の絵に、指導する立場の教師としては不用意な言葉を浴びせてしまったのだ。
「なんだ、仲谷の絵は上手いけど、正確なだけだな」
すぐに失言に気がつき言いつくろっていたが、美術教師の言葉は優一郎を深く抉った(えぐった)。
悔しかった。
提出した絵は、当時の優一郎としては最上の出来で、もしかしたら褒められるのではないかとドキドキしながら見せたのに、こんな結果になってしまって、悔しかった。
美術部になど入らなければよかったと思ったものだ。
入らなければ、否定されることもなかった。誰かと才能を比べてしまうことなどなかった。自分の絵がたいしたものではないと気づくこともなかった。
悔しさを感じ、そして遅れて、驚いた。悔しさを感じた自分に驚いた。
それはきっと、当時すでに同室の高熊修吾(アスマが殺害)と良好な関係を築けていたからだろう。平穏な学園生活を送れていたからだろう。心に変化が現れはじめていたからだろう。
中学までの優一郎なら、和の絵をただ凄いと思い、自分の絵が劣ることを当然のものとして受け止め、悔しさなど感じていなかったはずだ。
本来なら負の感情となるはずの悔しさが、心地よかった。
悔しさは、奮起に繋がる。
上手くなりたくなった。表現力をつけたかった。
ライバル心といっても、和を負かしたいわけではない。ただ、自分が納得できる絵が描きたかった。
「本当に、駄目な奴は! 本当に駄目な奴は、悔しさなんて感じないんだっ」
同じ台詞を、今度は強く熱い声で落とす。握ったこぶしがぶるぶると震えた。
だから、キミは駄目なんかじゃなない。
この台詞は言葉にはしなかった。ただ、そむけたままの春奈の横顔を見つめた。鼓動は天井知らずに高まり、身体が熱を持っていた。
こんなことを言ってる自分が恥ずかしくて誇らしくて、顔だけじゃなく、身体中が火照った。
やがて、そっと春奈の首が動き、優一郎と向き合った。
春奈は、驚いたような、それでいて穏やかな表情をしていた。
「あ、ありがとう」
彼女の口元にうっすらと笑みが見える。
ああ、よかった。死ぬほど恥ずかしかったし、なけなしの勇気を振り絞ることになったけど、言ってよかった。
そう思ったとたん、背後の茂みががさりと動き、優一郎はぎょっと振り返った。
同時、茂みの中から野口志麻が顔を出した。艶のあるショートカットの髪、くっきりとした二重の瞳、抜けるような白い肌。彫りの深い顔立ちで、外国人のようだ。
優一郎とは違い、痩せ行く男の影響は既にないのだろう。普段の容貌に戻っていた。
「野口さん!」
志麻は、優一郎の驚きの声には頓着しなかった。
「こんなとこにいたのね」
腕を組み、冷ややかな声を春奈に向ける。
「駄目でしょ、あたしから離れたら」
「志麻……」
春奈は立ち上がり呆然と立ち尽くす。
そんな春奈の頬を、志麻が手の甲でぱしりと叩いた。
「なっ」
目を見開いていると、志麻が「どうして、待ち合わせた場所に来なかったの?」詰問口調を続けた。
「ごめんなさい……」
「あなたは、あたしの言うことを聞いていればいいの。さ、行きましょう。あたしと一緒なら、安全よ」
すっかり表情をなくした春奈がこくりと頷く。
志麻の言う『安全』はおおよそ把握していた。
キャンプ場の管理棟で、牧村沙都美(死亡)や鷹取千佳(生存)、佐倉舞(死亡)らが争いはじめたとき、志麻と優一郎は混乱に乗じ建物から逃げたのだが、そのとき、沙都美は指輪の能力を発動させた。
それによって、窓が開かなくなり、後に続こうとした千佳と舞は外に出られなくなったようだった。
舞は椅子を窓ガラスに叩きつけていたが、割れなかった。単純に鍵をかけるというだけではなく、おそらく、物理的な耐性も高めるのだろう。
舞の『七人の盗賊』は全ての鍵を開ける能力だった。逆の能力があってもおかしくはない。
たしかに、志麻と一緒にいれば安全度は高まる。
どこかの建物に立てこもり、能力を発動させれば、外敵から身を守れる。
しかし……。
「村木さん……?」
優一郎の投げかけに答えたのは、志麻だった。一瞥(いちべつ)だけを寄こし、背を向け、歩き出す。優一郎に対する警戒心はかけらも見えなかった。安全と判断されたと言うよりは、内向的で暴力とは無縁の優一郎は、物の数に入れられていないのだろう。
「いいの?」
志麻について歩き出した春奈に、もう一度投げかける。
「本当に、いいの?」
人形のままでいいの? 自分の意思で、自分の感情で動かなくていいの?
言ってから後悔した。
春奈とは行きがかり上、少しの間一緒にいただけだ。彼女に行動を指示する資格など自分にはない。
また、見た限り、志麻はあくまでも春奈を支配下にしておきたいだけのようだ。言うことを聞かない春奈を手打ちすることはあっても、命をとることはないだろう。
だけど、言わずにはおれなかった。
ややあって、引きずられるように歩いていた春奈の歩がとまった。
ゆっくりと振り返る。
能面のようになっていた春奈の表情が、大きくゆがんだ。
「私……」
「春奈?」
志麻も振り返り、眉を上げる。
「私……」春奈が怯えと決意を滲ませ、志麻を見つめた。「私、志麻の人形じゃないわ!」
「な、何を言ってるの?」
怒りを含んだ声色。「何を馬鹿なことを言ってるの? あんたは私の言うとおりにしていればいいの」
春奈は黙って首を振ると、優一郎のほうに駆け寄ってきた。
春奈と二人、志麻と対面する形となる。志麻は、春奈の行動を受け、一瞬、虚をつかれたような顔をした。遅れて、もともと色白だった肌が蒼白になった。目の端がぴくぴくと震え始める。
「春奈、怒らないから、こっちに来なさい」
いたずらをした子どもを呼び立てるような口調。
「分かって! 私、私のまま死にたいの!」
志麻は表情を変えず、小首をかしげた。
春奈がどうしてこんなことを言うのか理解できない風情だ。
そして、「ああ、こいつがいけないのね」瞳が動き、優一郎を見据えてきた。
「こいつが、あんたを惑わしているのね」
さらりと言ったあと、肩掛けしていたディパックの口をあけ、中から手斧を取り出す。
高まった緊張感に、首筋の辺りが硬くなった。
「ちょ、志麻、何するの!」春奈が優一郎の腕を両手で握った。
「何って? あたしの大事な春奈を惑わすこいつを殺すのよ」
その静かな怒りが怖かった。優一郎のひざががくがくと震えだす。そうだ、これはプログラムなんだと、ここ数分の会話に夢中で忘れそうになっていた事実を思い出した。
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