<陣内亜希子>
腕時計の針は、午前9時をさしていた。時間を確認すると、住宅街を突っ切るタクシーの中で、陣内亜希子はゆっくりと目を閉じた。
プログラムについては多少の知識はあった。
亜希子は、プログラム優勝者の家族向けの講習会に出たことがあった。政府主催のものと、民間のもの。真斗のことを慮っての参加というよりは、弟のプログラム優勝で乱れた精神の安定を望んでの参加だった。
政府主催民間主催、そのどちらも連続講習だったが、ありていのことを講釈するだけで亜希子の助けにはならなかったので、初回にしか参加していない。
瞼の裏に、真斗の顔がふっと浮かんだ。
それは、幼い頃の彼の顔だった。共稼ぎの両親にかわって真斗の世話をしたのは亜希子だったが、手を焼かされた記憶はなかった。小学校中学校とあがっていくうちに、できる家事は手伝うようになったし、言わなくてもきちんと学校の勉強をするので、成績もよかった。反抗期らしき反抗期もなかった。
そんな真斗のことを、両親は自慢に思っているようだった。実際、近所のものに息子を誉められ、嬉しそうにしてる母親を見たことがある。
自慢の息子、誇りに思う息子。しかし真斗はプログラム優勝者となり、母親の、牧子の恐怖の対象となった。牧子の怯えは本物だ。彼女はかつては自慢に思っていたはずの息子を恐れている……。
「お姉さん、大丈夫ですか?」
鼻にかかる幼い声が、隣のシートからした。
目を開くと、横目に一人の少女の姿が見えた。
遠藤沙弓、
真斗の元交際相手だ。
「お姉さん、顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
沙弓が声にそぐわないしっかりとした話口で繰り返す。
「大丈夫」と答えてからコンパクトの鏡で確かめると、たしかにひどい顔色だった。先ほどから軽い眩暈と頭痛もする。
沙弓は色白で、愛くるしい顔をした娘だ。
通っている高校のものだろう、シンプルなデザインの制服を着ていた。
合流したとき、彼女は「この方が、真斗の学校の人と話しやすいだろうから」と言っていた。
彼女が通っている高校は有名なお嬢様学校だ。その制服と学生証がもたらす信用を、彼女は的確に理解していた。そして、軽く嫌悪もしているようだった。「こういうの、嫌なんだけど」とも漏らしていた。彼女らしいといえば、彼女らしい。
沙弓は自身に正しさを求め、周囲のものにも求める。
本来ならば、真正面から交渉したいにちがいない。だが、身元怪しい女の子一人でのこのこ出て行っても、おそらくは門前払いを食うだけだろう。
だからこその制服姿であり、真斗の実の姉という立場の亜希子なのだ。
「真斗、お腹すかせてないかな。ちゃんと食べれてるかな」沙弓が唐突に言った。
無言を返すと、沙弓は軽くかぶりを振ってから、「今朝は冷えるけど、暖とれてるのかな」「誰も怪我させてないかな。怪我されてないかな」息せき切って続け、最後に「……真斗、大丈夫だよね。まだ生きてるよね……。誰も殺していないよね……」と小声を漏らした。
「大丈夫。あの子は強いから」
沙弓を元気付けるその声は我ながら空々しかった。心のどこかで真斗の死を願っていることをよく承知しているからだろう。
「真斗……、お願い、真斗……」
沙弓が両手を胸の前であわせ、独り言のように呟く。
彼女は明け透けに真斗の心配をする。真斗の無事を祈る。彼の身体の心配をし、彼が誰かを殺していないかと心配する。
そして、彼女が真斗の心配を口にするたびに、そのどれもを自分が考えていないことを、亜希子は思い知らされる。
家族なのに。たった一人の弟なのに。
なのに、私は弟が生きていて欲しくないと思っている。
なんだか、自分がとてつもなく汚らしい物に思え、亜希子はぎゅっと眉を寄せた。
*
ぶどうが丘高校は武蔵野市郊外にある。
周囲は、緑が多い閑静な住宅街だった。
タクシーはぶどうヶ丘高校の手前で降りた。真斗が通っている高校の外観を見てみたいと思ったからだ。
思ったよりも規模の小さい学校なんだな。
敷地を取り囲む塀に沿って歩きながら、そんなことを思う。
校舎はささやかな三階建てだった。グラウンドやプールは見えない。別の場所にあるのだろうか。また、緑色のスロープの向こうにレンガ色の建物が併設されていた。おそらくあの建物が学生寮なのだろう。
印象を口に出すと、沙弓が「一クラスあたり20人程度で、クラス数もそんなに多くないらしいですから」と返してきた。
「そうなんだ」
よく知っているな、そう思いながら頷く。
沙弓は真斗の現在の生活について意外なほど多くの知識を持っており、比べて、自分はあまりにも知らな過ぎた。亜希子は、意識的に真斗のことを考えないようにしてきた。沙弓は真斗のことをずっと考えていたのだろうか?
と、目の焦点がぼやけた。
膝から力が抜け、そのまま地面に崩れ落ちる。
「お姉さん!」
驚いたであろう沙弓が声を上げた。
「大丈夫、ちょっと躓いただけ」
言って、立ち上がろうとすると、眩暈に襲われてまた座り込んでしまった。
貧血? 疲労?
矢継ぎ早に言葉が浮かぶ。どうやら頭ははっきりしているようだった。昨日から体調はよくなかった。そのうえ、この緊張感だ。身体がついていかなかったのだろう。
「だ、大丈夫ですか?」
後方から男の声がした。たったと駆け寄る音もする。ややあって、瞼の向こうが陰った。誰かが片脇に膝をついたようだった。
「あ、あの、急に倒れちゃって」
沙弓が答える。
「ちょっと貧血です。大丈夫ですから」と言ってはみたが、我ながら弱弱しい。
男は、亜希子の背と地面の間に手をいれ、起き上がらせてくれた。
「僕の車がそこにありますんで、シートを倒して、少し休まれますか?」
ここで、やっと視界がクリアになった。
見ると、ジーンズに薄手のジッパーコートを羽織った若い男
だった。丸顔で、目じりの落ちる柔和な瞳をしている。
「えと、怪しいものではないです。学生証、見ますか?」
ポケットから取り出された折りたたみ式のパスケースには、定期券と、都内にある某国立大学の学生証が入っていた。院生のようだ。
「深沼……ミライさん?」
「ええ、漢字をあてるなら、過去未来の未来です。いい名前でしょ」
そう言うと、深沼が人懐っこそうな笑みを見せた。
と、不思議な感覚に囚われた。
深沼ミライ
にどこかで会ったことがあるような気がしたのだ。
見れば、向こうも似たような感情をにじませている。
「どこかで……」
ややあって、深沼がはっとした顔を見せた。どうやら向こうは思い出したらしく、「講習会でお見かけしたことが」と笑い声で言った。
ああ、と思い出す。
プログラム優勝者の家族向けの講習会で一緒になったことがあった。
母親の牧子がとうてい出席できるような精神状態ではなかったので、亜希子一人で参加したのだが、その会場で彼を見かけた記憶がある。
直接何か会話したわけではないのだが、親世代が大半を占める中、亜希子や彼のような若者は明らかに浮いていた。
それで、互いになんとなく記憶に残ったのだろう。
「と言うことは、今回のプログラムの件で学校に来られたんですね」
誤魔化しようもなかったので、頷く。
「こちらのお嬢さんは?」
おどけた口調の彼に、「弟の知り合いの方です」笑顔を返す。
人を和ませる、不思議な魅力のある男だった。
「さて、どうされます?」
何を聞かれているのか、一瞬分からなかったので返事が遅れた。
「いえ、大丈夫ですから」
気を許しかけているとはいえ、過去に一度会っただけの男の車に入るなど、危険極まりない。しかも、今は一人ではなく、沙弓もいるのだ。彼女を危険に晒すわけにはいかない。
「いや、でも、全然大丈夫そうじゃないっすよ」
深沼は腕を組んで少し考え、「じゃぁ、保健室に行きましょう。ベッドで休めば楽になりますよ」と続けた。
「保健室?」
部外者が利用できるのだろうか? と怪訝な顔をする亜希子をよそに、深沼は携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をかけた。
相手が出たらしい。
「ご無沙汰してます、深沼です。……そう、ミライです。今、学校の前まで来てまして。……はい、そうです。アスマのことで。……いえ、ご心配おかけしまして。それでですね、学校のそばで倒れたれた方がいまして。貧血のようなんですけど、ちょっと診ていただけませんか? ……はい。はい。意識は戻ってます。……いえ、この方も関係者の方です」
ここで、深沼はちらりと亜希子に視線を落とし、
「……ありがとうございます。……いえ、一応動けるようですし、担架はなくてもいけそうです。もう一人連れの方がいてるんで、その人と……。はい、ではお願いします」続けた。
電話を切った深沼がにこりと笑い、「OKでました。向かいましょう」と言った。
話の流れからすると、学校医と親しいようだ。
そして、アスマというのが彼の弟妹……名前からするとおそらくは弟だろう……で、真斗同様にプログラムに巻き込まれたというわけだろう。
深沼が講習会に来ていたことから推察すると、その「アスマ」もプログラム優勝者なのかもしれない。
多少ふらつくものの、もう足取りは回復していたので、沙弓や彼に肩を借りることなく自分で歩くことができた。
「保健室、こっちです」
土曜だからだろうか、プログラムが開催されている関係で部活が休みになっているのだろうか、学校内には生徒の姿がなかった。
深沼が迷いなく案内する。
明らかに構内の知識がある様子だった。
彼は人を和ませるだけでなく、表情を読むことにも長けているようだ。何も言っていないのに、「僕、この学校の卒業生なんですよ」と笑顔で言ってきた。
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