<陣内亜希子>
母親の牧子を寝かしつけた亜希子は牧子の部屋から出、深いため息をついた。テーブルに置いたままになっていたワインをグラスに注ぎ、リビングのソファに身体を預ける。
疲れきっていた。
もともと体調はよくなかった。その身体で、すっかり参ってしまった牧子をなだめすかし、寝酒を入れて落ち着かせるというのは、骨の折れる作業だった。
弟の真斗が再びプログラムに巻き込まれた話は、当初はとうてい信じられるものではなかったが、政府の係官が持ってきたという文書は、たしかに本物だった。
一年前、中学三年生の真斗が巻き込まれたプログラムのときもまったく同じ文書が届けられたものだ。
「ねえ、あの子、今度こそ、死んでくれるか……しら?」
先ほどの牧子の言葉を口に出す。
耳をついて離れなかった。数時間を経て、牧子の言葉は亜希子の言葉になっていた。
真斗……、真斗。お願いだから、もう戻ってこないで。
恐ろしかった。
弟のプログラム優勝によって粉々に砕かれた日常を、やっとのことで修復してきたのだ。そのささやかな平和を崩されるのが怖くて怖くてたまらなかった。
また、久しぶりに入った母の部屋が越してきてから数ヶ月たった今なお未整理であったことも、亜希子の意気を少なからず消沈させていた。
牧子は、福岡では市立病院の薬剤部長をしていた。
当時は休みの日も専門書を読みふけり、貪欲に新しい知識を身につけていた。「上に立ってんだからね。それ相応な知識を持ってなくちゃ」そんな言葉が口癖だった。
しかし、今は専門書の類は段ボール箱の中から出されてすらいないのだ。
牧子は現在市内の中規模病院で平の薬剤師をしている。
専門知識を見につけ、薬剤部の長として人を使う立場だったのに、今は薬科大学出たての女の子たちと同じ仕事をしている。
面白く無いだろうし、悔しくもあるのだろう。また、牧子は息子がプログラム優勝者だと知られてしまったらしい。居心地は悪いに違いない。
亜希子だってそうだ。
幸い職場に弟のことは知れていないが、それは今のところの話で、もし真斗が再び帰ってき、そのことが知れたら……。
帰ってきて欲しくないという牧子の願いが亜希子の願いとなるのも無理のないことだった。
ワイングラスを握る自分の指先をじっと見つめる。そこには先ほど抱いた母親の肩の震えがが余韻として残っていた。
……あの人は、お母さんは、真斗を怖がっている。人殺しの息子を。
と、いきなり亜希子の携帯電話が鳴り始めた。
タイミングがタイミングだけに、飛び上がるほど驚いたが、ウィンドウに現れた発信者の名前を見、さらに驚く。発信者は実に意外な人物だった。とりあえず通話ボタンを押してから、携帯電話を片手にベランダに出る。
途中、母親の部屋を覗いたが、幸い起こさずにすんだようだった。
「はい、陣内です」
小声で話すと、ややあってから女の子の声が漏れてきた。
「ああ、よかった。番号、変わってなかったんですね。夜遅くにすいません。沙弓です」
少し鼻にかかった可愛らしい声、それは真斗の元交際相手の遠藤沙弓
の声だった。
何と言ってよいのか戸惑っていると、「すいません、ご無沙汰してました」沙弓の特徴のある声がした。
聞きながら、ああ、この子はこういう子だったと一人頷く。沙弓は、声の甘さにそぐわないしっかりとした話口の女の子だった。
沙弓とはもちろん真斗を通じて知り合ったのだが、妙に気が合い、姉妹のような付き合いをしていた。福岡時代、彼女とは何度も食事に行ったり買い物に行ったりしたものだ。
真斗も相当に大人びた少年だったが、沙弓も当時14,5歳にしては幼さの感じられないしっかり者だった。その沙弓が午前二時という非常識な時間に電話をかけてきたことが気にかかる。
「いったい、どうしたの?」
「あ、あの、陣内くんが、真斗が、プログラムにまた……ほんとですか?」沙弓にしては要領の得ない台詞だったが、言いたいことは分かった。
「ええ」
答えてから、疑問を感じた。
「でも、どうして……」
「ニュースで。ニュースで見たんです。ぶどうヶ丘高校が特殊プログラムの対象に選ばれたって」
最近では、人権保護の観点からあまり行われていないのだが、プログラム終了後にニュースで生存者のインタビューとその他情報が流れることがある。また、ごく稀に開催と同時に流されることがある。今回はレアにレアを重ねたケースだったのだろう。
新しい疑問が浮かんだ。
「沙弓ちゃん、真斗の学校知ってたの……? クラスも」
ニュースで流れるのはせいぜい学校名クラス名までだ。個々の選手名が流されることはない。
真斗と沙弓は、去年のプログラムのあと別れてしまったはずだった。
最近になって連絡でも取り合っていたのだろうかと思い、訊くと、「あの、前に調べたことがあって……。それで知ってたんです。真斗とはあのプログラム以来、一切連絡とってません」と返って来た。どうやら亜希子らが横浜に住んでいることも知っているらしい。
話をするたびに疑問が増える。
なぜ彼女はそんなことを調べたのだろう。今度は訊けなかった。あまりにも彼女の内面に踏み込んだ質問だと思ったからだ。
少し、沈黙が起きた。そして、その沈黙を切るように沙弓が言った。
「あの、一緒に真斗の学校に行ってみませんか?」
「えっ」
短く切った亜希子の反問にかぶせるように沙弓が言葉を繋げる。
「学校に電話を入れたんですけど、夜は当直の先生しかいなくて、よく分からないみたいなんです。……行ってどうなるってわけじゃないんですけど、なんだか居ても立ってもいられなくて」
ごくりと喉に唾液を落とす音が携帯電話の向こうから聞こえた。
「私、一年前のことをやり直したいんです。……助けられなかった。真斗が一番辛いときに支えてやれなかった。だから、別れちゃった。ずっと後悔してた。どうしてあのとき、真斗に声をかけられなかったんだろって。真斗、黙ってたけど、何も話してくれなかったけど、だけど、やっぱり辛かったろうに。助けて欲しかったろうに……」
「でも、あなた福岡でしょう。もうこんな時間だし飛行機も……」
亜希子の言葉をさえぎり、沙弓が言った。
「あの、私、今東京にいるんです」
聞くと、彼女は東京の有名女子大学の付属高校に進学していた。実家は福岡のままで、親戚の家から通学しているそうだ。
「近くにきていたのに連絡もしなくてすいません」
低く、彼女が言う。
「お姉さん、明日お仕事ですか? もしよかったら一緒に行って貰えませんか? 一人じゃ心細くて……」
明日……時間的にはもう今日の話だが……土曜日で、仕事は休みだった。
しかし、行ってどうなると言うのか。
「ほんと、行ってどうなるわけじゃないんですけど、でも、行ってみたいんです」
亜希子の心の疑問を読み取ったかのように彼女が強い口調で言った。
ふっと振り返り、牧子の部屋へと繋がる引き戸を見た。
彼女はどうしようもなく真斗のことを怖がり、そして、本心から真斗に死んで欲しいと思っている。また、自分にも同じ感情がある。沙弓とは違う。いち早く逃げ出した沙弓とは違って、亜希子も牧子も、様々な現実と戦ってきたのだ。軽々しく真斗の身を案じる台詞だけを吐くことはできない。
……本当にそうだろうか。
どきりと胸が鳴った。
家族なら、肉親なら、何があっても息子を弟を守るべきじゃないのだろうか。身を案じるべきじゃないのだろうか。いても立ってもいられなくなるのは、沙弓ではなく自分たちであるべきではないのか。
ひやりと背中に冷たいものが走る。
しかし、やはり、真斗には戻ってきてほしくはなかった。
亜希子はどう断ろうかと考えていたが、同時に、真斗の高校までタクシーで行けばどれぐらいかかるか、手持ちの金で間に合うのか計算している自分に気がつく。
強張っていた表情がふっと緩んだ。
下唇を舐め、乾いた声を押しだす。
「分かったわ。向こうで落ち合いましょう」
何かが変わる、いや、一度死んだ何かが蘇る、そんな予感がした。
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