OBR1 −変化− 元版


□■
097  エピローグ


<野崎一也>

 
 島の中央部、高台の上にある雑木林。斜面を見下ろすと、木々の間に、白波の立つ群青色の海が見えた。浮かんでいるのは漁船だろう。海に逃げ出そうとする生徒たちを撃ち殺す巡視船ではないことだけは、たしかだ。
 鬼塚に渡されたメモを開ける。
 メモの通りならば、そろそろ着くはずだった。
 額に浮かぶ汗を拭う。三年前は耳にかかるやや長い髪だったが、今は短く刈り込んでいる。身長もあの頃より数センチ伸び、華奢だった体格は成人男性のそれに近づいてきている。
 髭は毎日剃っている。最後の声変わりも終えた。本をよく読むようになったためか、視力は低下し、コンタクトレンズを装用するようになった。
 成長と変化。
 角島で死んだかつてのクラスメイトたちが享受できない大切なものだ。

 と、唐突に林が開けた。
 10メートル四方ほどが更地になっており、古ぼけた石碑群があった。数えてみると、六つあった。
 身体が震え始めた。喉元までせりあがってきた心臓を押さえ込み、動悸を鎮める。
 おかしなものだ。ここに来るまでは平心でいられたのに。
 やはり、そうだった。鬼塚から場所を聞いたときにもしやとは思っていたのだが、やはり、啓太を最後に看取った場所だった。
 血にまみれ、死んでいった啓太。
 その姿を思い出し、どきどきと胸を鳴らす。


 鬼塚千尋との交流は、角島での死闘が終わって数ヶ月後から始まる。
 その頃住んでいたアパートに突然訪ねてきたのだ。
 彼はスーパーの袋を持っており、「飯でも食わないか」と言ってきた。その突飛な内容もさることながら、鬼塚の人懐っこい笑みに驚かされたものだ。
 また、脇に従えていた20代半ばの若い男が、一也が参加させられたプログラムの補佐をしていた専守防衛軍の事務官だと聞いたときは、さらに驚かされた。
 雁首そろえて何を? 怒りにまかせ、突っぱねようとした。
 しかし、「出て行け」と追い出そうとした瞬間、思いだしたのだ。
 プログラムの説明時、鬼塚は誰も殺さなかった。逆らおうとした羽村京子を殺さなかった。撃とうとした兵士を止めた。
 巻き込まれた当初は知識を持っていなかったが、一也はそのときすでに中川典子と接触を持っており、他のプログラム担当官の話を聞いていた。
 ……その多くが説明時に生徒を「間引く」のだと言う。
 坂持国生の父親も毎回数人の生徒を殺していた。
 鬼塚は、そんな担当教官らとは一線あった。
 それでも当時はまだ一也の中で鬼塚は政府とイコールだったため、怒るやら困惑するやらで目が回りそうになったことを今でもよく覚えている。

 結局、鬼塚のペースに巻き込まれ、鬼塚の作った夕飯を食べ、プライベートな話をし、仕事の話をし、プログラムの話をした。まぁ、話しているのはほとんど鬼塚と事務官の彼で、一也は投げかけに答えるだけだったが。……今になって思えば、それも気遣いだったのだろう。
 そして、いくらかほぐれてきたところで鬼塚が言葉を落とした。
「……泣いたか?」
 突然の質問だった。意味が分からず、無言の反問を返した。それを見た鬼塚は、「優勝の後、泣いたか? 病院を出てから、泣いたか?」付け加えた。
 やはり無言を返した。
 否定と取ったのだろう、鬼塚は眉を寄せ、何気ない口調でぽつりと言った。
「辛いとき、人は泣くもんだ」
 聞くと同時に、一也の身体の中で何かが決壊した。ぼろぼろとこぼれる涙を止めることができなかった。戸惑いの声をあげたようとしたら、代わりに嗚咽が漏れた。

 言われて初めて、一也は、そうか自分は辛かったかと気がついた。
 死闘を演じた恐怖。クラスメイトの死体を目撃した、恋焦がれていた相手の死を看取ったトラウマ。人を殺した自責の念。両親を失った悲しみ。当時の一也は様々な負の感情に支配されていた。
 それをおしてクラスメイトの墓前を参り、遺族たちの切れるような視線に耐えていた。
 15やそこらの少年が背負うような人生では決してなかった。
 だけど、一也は必死だった。疲れていた。……必死すぎて、疲れ果てていて、自分が無理をしていることに気がついていなかったのだ。
 だけど、鬼塚の言葉で気がついた。
 一度切られた堰から流れる涙は止まらず、やがて赤子のように声を上げて泣いていた。

 鬼塚は、一也のアパートを出るときにプログラムの内部資料を渡してきた。
 政府側の人間である彼がどうしてそんな資料を流してくれるのか疑問だったし、その資料が罠であることも十分に考えられた。何よりも、自分が反プログラム運動にかかわっていることを知れていた事実に恐怖した。
 しかし、結局捕縛されることはなかったし、一也が組織に渡した資料もプログラム終焉に一役をかった。
 鬼塚が紹介してくれた精神科医は、政府にかぶれておらず、ごく誠実に一也の精神治療を行ってくれた。早期に立ち直ることができたのは……少なくとも社会生活が可能なほどに回復できたのは……間違いなく鬼塚のおかげだった。
 どうして色々と助けてくれるのか。
 尋ねた一也に、鬼塚は笑って答えた。「俺って中途半端だ」プログラム中に一也が漏らした言葉に惹かれたのだと言う。一也の中に鬼塚自身を見たのだと言う。
 ……やはり、よくわからない男だ。



 集落から遠く不便な位置にあるにもかかわらず、慰霊碑は苔むしていなかった。水も花もまだ真新しく、夏日に艶やかな光を返している。
 プログラム制度廃止の後も、島民たちは墓守を続けているようだ。
 過疎化が進む島。その脆い財政を、プログラム補助金で補填していた島。制度廃止は、島の息の根を止めるようなものだ。プログラムの終焉には、島民それぞれの複雑な思いがあったことだろう。
 石碑を見ながら、鬼塚のことを考えた。
 彼は角島の出身だった。誕生時には未熟児で、プログラム補助金で作られた病院で生きながらえたらしい。彼とプログラムの関わりは、悲しいほどに深い。

 プログラムが廃止したからといって、大勢に変化はなかった。
 相変わらず政府は威圧的だし、準鎖国政策も続いている。
 だけど、鬼塚は言っていた。
「近い将来、この国は変化を、開国を迫られる」「開国は必要だが、どういった形で開国するか考えなくてはいけない」「うまく立ち回らなくては列国の従属国となるだけだ」
 現在の鬼塚は、外交を担当する省庁に所属している。
 また、事務官の彼は軍を退官し鬼塚の腹心の部下となっており、いまは海外にいる。この男もなかなか食えない男だが、鬼塚ほどではなく、歳も近いせいか、親しくしていた。
 後一年足らずで卒業だ。卒業後は、海外の語学スクールに通う予定だった。
 出国は激しく制限されているが、外交省に転属した鬼塚の口利きで可能になった。……ただのプログラム担当官、下級官僚でしかなかった彼にどうしてそんな力があるのか、不思議だった。
 そもそも省庁の転属など容易ではないはずだ。
 実際に訊いたこともあるのだが、適当な言葉ではぐらかされてしまった。
 よくよく掴みにくい、謎な男である。

 留学の目的は、外国の現状や政治経済を知り、どういった形で開国すればいいのか考えてみたいと一也自身も思ったからと、セクシャルマイノリティとしての生き方を見つめたいと思ったからだ。
 鬼塚の話では、外国でもマイノリティは基本的に隠れすんでいるが、中には自信を持って生きている者もいるらしい。大東亜共和国では見られないことであり、大いに興味を引かれる事実だった。

 一也は、最近では同性愛者であることを積極的にカミングアウトしている。
 それは、この国ではまだ珍しいことで、奇異の目で見られることも少なくない。離れていった友人もいたし、陰口も叩かれる。差別も受ける。
 現実は、人は排他的な生き物だということを、実に様々な表現を持って一也に教え込む。
 だけど、死ぬことにくらべれば「そんなこと」だった。
 プログラム会場での経験は、一也の精神に確実な変化と成長をもたらしていた。
 以前ほどには同性愛者である自分を蔑むことはなくなった。もちろん、三歩進んで二歩下がるような状況で後ろ向きになることもあるのだが。
 それでも極めて前向きな変化であることには違いはない。プログラムのおかげ、とは口が裂けてもいえないし、思うこともできないが、強くなったことは確かだ。
 だけど、違う。
 まだ肩肘を張って生きているだけだ。もっと気楽に、当たり前のように、自分のセクシャリティを受け止められるようになりたかった。
 だから、外国に行き、そんな生き方をしている人たちと触れ合いたかった。彼らから影響を受けたかった。

 将来のことを考える。
 そんな気持ちの余裕を持てるようになったのは、ごく最近のことだ。
 反プログラム運動に関わっていた頃やその後しばらくは、自分が同性愛者であることすら忘れていたほどだった。
 やっと最近。やっと最近、将来のことを考えるようになった。なりたい自分を考えるようになった。
 この心境の変化には、鬼塚の存在がやはり大きい。

 ……中川典子にとっての鬼塚は、婚約者の彼だろうか。
 中川典子は数ヵ月後に結婚することになっている。
 相手は典子の会社の同僚だ。何度か引き合わせてもらったことがあるが、少々軽いところがあるものの、芯の部分は誠実そうな男だった。
 彼のいい意味での「軽さ」は、一也同様に決して消えることのない烙印を背負った彼女の救いとなることだろう。
 彼にプロポーズされたとき、典子はすべての事情を話したらしい。
 危険極まりない大きな賭けだったが、彼は受け入れた。
 人を殺したことのある彼女を受け入れた。あの瞬間、中川典子はプログラムの呪縛から抜け出たのだと、一也は考えていた。長い長い呪縛。10数年の呪縛から。
 七原秋也のことは忘れてはいないと、彼女は言っていた。忘れてはいないけど、心の引き出しの奥のほうにしまうことがやっとできたと、言っていた。
 一也も啓太のことを忘れてはいない。
 そして、中川典子のように整理もついていない。まだ机の上の真ん中に、啓太への想いは残っている。だけど、いつの日か、彼女のように切りをつけられるときが来るのだろう。
 その日が待ちどおしいような来て欲しくないような不思議な気分だった。


 クラスメイトたちの慰霊碑に手を合わせ、水をかける。花は持ってこなかった。持ってくればよかったと、少し後悔した。
 親しくしていた啓太や高志、学ら。プログラム中に関わりを持ったクラスメイトたち。
 それぞれの顔が浮かんでは消えた。
 分校を出る前にディパックを一度高く掲げて見せた高志。血まみれで息絶えた啓太。同性愛者であるとカミングアウトした一也に「そんなこと」と言ってくれた学。
 幼馴染の高志。恋をした啓太。誇り高い学。大切な仲間だった。
 和田みどり、羽村京子、坂持国生、中村靖史、木沢希美、黒木優子……。プログラム中に会ったクラスメイトたちの顔が浮かんでは消える。
 吾川正子、西沢士郎、佐藤君枝、津山都……。プログラムでは会うことがなかったクラスメイトたちの顔が浮かんでは消える。
 そして、安東和雄。
 安東和雄は、最後、挑むような視線をなげつけてきた。彼の言葉の数々の謎は解けていないが、あの視線の意図は分かったつもりでいる。
 彼は戦いを挑んできていたのだろう。
 己を殺す人物のそれからの人生を睨みつけたのだろう。

 一也はふっと息をつくと、踵を返し歩き始めた。足取りは重かったが、背筋をぴんと伸ばし前を見据えた。雑木林の梢の先に、いつのまにか雲のかかり始めた薄曇の空が見える。
 ふさわしいと思った。
 自分には、晴天は似合わない。
 人を殺したという事実、自分だけが生き残ったという事実は、決して消えることはない。罪悪感を抱き、「本当に生き残りは自分でよかったのか?」という思いと戦い続けなくてはいけない。
 それは、仕方のないことだ。
 だけど、いつか、影を残しながらも、穏やかに笑える日がくるのだろう。
 セクシャリティを真正面から受け止め、当たり前のように受け止めることができたとき、そのとき初めて安東の挑みに応えることができるのだろう。

 一也は振り返らなかった。
 また、来るよ。
 慰霊碑に、かつてのクラスメイトたちに、背中で話しかける。
 思い浮かべるのは、プログラムに巻き込まれる前、教室の風景。
 佐藤君枝や津山都たち女の子グループの嬌声が教室に響く。楠悠一郎たちの強面の声がする。教室の隅で、尾田美智子や黒木優子らが何か話している。西沢士郎や三井田政信がフリースローの真似事をしている。
 高志が馬鹿をする。学が皮肉を言う。啓太が穏やかに笑う。
 開けた窓から、すっと風が入ってくる。
 木の机の匂い。廊下の匂い。制服の匂い。
 目頭が熱くなり、涙が滲んだ。
 今度は、踏みつけなかった。右手の人差し指で涙をふき取り、濡れた指先を丸めこぶしを握る。こぶしがぶるぶると震え始めたので、逆手で包み込んだ。

 大事に、大切に。宝物を守るかのように。






後書き


□□■  バトル×2 1TOP ご意見ご感想 更新お知らせ登録