OBR1 −変化− 元版


096  エピローグ


<野崎一也>


 プログラムから三年後の夏、一也は角島に来ていた。
 蝉時雨(せみしぐれ)の中、雑木の群れを縫う林道を歩く。青々と葉を茂らした何種類か樹木によって陰にはなっていたが、正午前という時刻、発汗はとまらない。
 見上げると、網目のようになった葉と梢の間から、抜けるような青い空がのぞいていた。
 夏休みを利用しての一週間ほどの旅路だった。
 気ままな旅を咎めてくるような存在はいない。

 安東和雄を殺したあと、一也は気絶した。気がついたら官営病院のベッドの上だった。両親は甲斐甲斐しく一也の世話をしてくれた。一也の身体を気遣い、心を気遣ってくれた。
 しかし、心労がたたったのだろうか、もともとそういう運命だったのだろうか、一年ほどして父親が心臓麻痺で倒れ、あっさりと帰らぬ人となり、母親もそのまま身体を崩して逝った。
 その後は東京の親類の家に一時世話になったが、やはり居づらく、しばらくして一人暮らしを始めた。幸いといって良いのか、両親の死亡保険が入っており、当座の学費と生活費に充足することができた。



 三年前、啓太の死を見届けてから後のことを、一也は今でも鮮明に覚えている。
 聞こえてきた連撃音。ややあって、驚くほど大きな爆撃音が聞こえてきた。そう近い距離でもなかったのに、一也がいた雑木林の木々がびりりと震えたものだ。
 本能的に安東和雄がそこにいると悟り、光に吸い寄せられる羽虫のように聞こえる方向へと駈けていったら、数人の男女が倒れているのが見え、放送が始まった。
『まずは、6時から12時までに死亡したお友達の名前だー。……ええと、多いなぁ。藤谷龍二くーん、結城美夜さーん、坂持国生くーん、永井安奈さーん、鮫島学くーん、木沢希美さーん、中村靖史くーん、羽村京子さーん、矢田啓太くーん、三井田政信くーん』
 聞いた後、一也の口からこぼれたのは、「え?」という小さな疑問府だった。
 放送の内容が信じられなかったのだ。
 看取った啓太の名があがることは当然として、ほんの少し前まで一緒にいた鮫島学や羽村京子らの名前があがっていたのだ。とても信じられるものではなかった。

 しかし、困惑は長くは続かなかった。
 ふらふらと進むうちに、安東和雄の姿を認めたからだ。
 雑木林の脇でトラックが燃え上がっており、斜面の畑の中には三井田政信、農道には黒木優子と羽村京子の亡骸が見えたが、何よりも目を奪われたのは、安東和雄だった。
 ……啓太を殺した、憎い、憎い、安東。
 すでに激情に囚われていた一也の身体が、芯の芯から燃え上がった。怒りそのままに彼にコルト・ガバメントの銃口を向けた。しかし、弾は外れ、雨に濡れた地面に呑み込まれた。
 その瞬間、身体の奥から熱が消えた。安っぽいマジックのようだった。手のひらの中に包まれたコインがふっと消失するかのように、一也から激情が消えた。
 そして、その代わりに、人を殺すことへの恐怖が一也の身体に満ちた。

 次の安東和雄の言葉で、冷えた一也の身体は混乱の渦に落ちた。
 彼は、「もうすぐ、禁止エリアだ」と言った。
 それは、甘い蜜のような言葉だった。甘くて甘くて歯を悪くしそうな言葉だった。禁止エリアに任せれば、自分の手を汚すことなく、最後の一人になれる。正直なところ、かなり心動かされたものだ。
 だけど同時に、どこかに飛んでいた、啓太を殺された悲しみの感情と政府への憎しみの感情が舞い戻ってきた。消えていた熱も一瞬にして戻った。消失したコインは、マジシャンの逆手から現れた。

 思った。
 どうして、自分たちはこんなにも苦しまなくてはいけないんだろう。どうして、戦わなければいけないんだろう。
 根本的な疑問、いつしか口にも出ていた。
「なんで……。なんで、俺たちが殺しあわなくちゃいけない!」
 そんな一也から一つの感情を引き出したのは、和雄だった。
 彼は「オレは……、生谷を殺したぞ」と言った。
 瞬間、時が止まったような気がした。一呼吸置いて、全てを理解する。
 理解したと同時、事実が一也を打ちのめし、安東和雄への純粋な憎悪だけが残った。
 めまいを覚え、視界がぐるぐると回った。心臓が膨れ上がり軋んだ(きしんだ)音を立て、激しい心拍に頭の奥が痛んだ。
 最後に一度、迷った。涙に迷わされた。
 こぼれ落ちる一滴(ひとしずく)が、啓太の亡骸から離れたときと同じように、一也を押しとどめようとした。
 しかし再び、一也は涙の声を振り切った。
「あああああっ」
 叫んだのが先か、グリップに力をこめたのが先か、とにかく大きな反動に見舞われ、横たわる安東和雄の身体が一度バウンドした。
 叫んだと同時に、目を瞑っていた。狙い済ます余裕などなかった。
 にも関わらず、撃った弾丸は、和雄の喉元に決して大きくはない的に命中し、そして。そして、一也は人殺しとなった。

 彼の言葉の数々に疑問を感じたのは、病院を出てからだった。
「もうすぐ、禁止エリアだ」「オレは……、生谷を殺したぞ」安東は、どうしてあんなことを言ったのだろう。
 今でも答えは見えない。
 弟の存在を知り、彼の15年間の人生を知った今となっては、彼のプログラム中の思考をある程度は追う事はできる。しかし、対峙したあのときの言葉の数々への疑問は今もって晴れない。
 もしかしたら、このままずっと晴れないままなのかもしれないし、ある日突然、答えを見つけるのかもしれない。



 プログラム優勝者に支給される生涯保障金は、貰える額は半減したが前受け制度を利用し、各種の慈善事業に寄付した。
その中には、慈恵館も含まれていた。
 全国あちこちにあるカソリック系の孤児院で、安東和雄の弟が現在生活している施設だ。
 安東に銃弾を撃ち込んだあと、彼の手に何か紙片のようなものが握られていることに気がついた。取り上げてみると、一枚の古ぼけた写真だった。
 暮れなずむ下町を背景によく似た男の子が二人写っており、また、写真の裏にとある施設の住所が書かれていた。それは官営の孤児院の住所だった。調べてみると、その孤児院に安東和雄の弟がいることがわかった。
 安東は事故で両親を無くしており、孤児院に預けられた時期があった。
 その後、養い親である安東家に引き取られ神戸に来たようだ。

 鬼塚から聞いた話では、彼は矢田啓太や生谷高志の他にも多くの生徒を殺していたらしい。
 死にたくないという思いもあってのことだったのだろうが、おそらくは弟のために戦ったのだろう。官営の孤児院の劣悪な環境は有名な話だ。初めて会ったときの安東の弟は、痩せ細りうつろな目をしていた。
 この環境から弟を救い出したい。
 彼はそう思ったのではないだろうか。
 だから、写真を握り締めていたのだろう。写真には安東の血で汚れていた。あるいは、それまでに殺したクラスメイトたちの血か。汚れの一つ一つが彼の悲壮な決意を物語っていた。

 一也は、受け取った保証金の幾らかをこの弟のために使った。官営の施設から民間の施設に移すためには、馬鹿げたことに多額の金を政府に支払わなくてはならなかった。
 受け入れ先は安東和雄がかつていた慈恵館になった。
 試しに連絡を取ってみたら、快く引き受けてくれたのだ。
 慈恵館の館長とは何度か会ったが、館の名前に恥じない慈愛のある人物で、建物は清潔で子どもたちも明るい表情をしていた。慈恵館ならば、安東和雄の弟も幸せに暮らせるに違いない。


 鮫島学が仕掛けた『爆弾』は、政府が最も嫌う形で爆発した。諸外国はこぞって批判し、経済制裁も与えてきた。
 これを機に、国内でもプログラムに反対する機運が高まった。テロ紛いのものから市民運動の延長のようなものまで、多岐に渡った。
 政府はそれでも半年ほど諸外国からの要請を突っぱね、プログラム反対運動の殲滅にも注力したのだが、プログラム制度立ち上げに関わった権力系の失墜という要素もあり、結局のところ、プログラムは凍結された。
 そして、法整備などに数ヶ月を要し、あの角島でのプログラムから一年後、制度は廃止された。
 これには、中川典子も鬼塚も驚いていた。彼らはもっと時間がかかるものと予想していたらしい。
「歴史の波って、さざ波だと思ってた。浜の砂のお城を少しずつ崩していく、さざ波だと思ってた。……違ったのね。台風のときの、おっきな波だったのね……」
 プログラム廃止が宣言されたときの中川典子の言葉だ。

 中川典子とは、割合に早い段階で会っていた。坂持国生から聞いていた連絡方法を使うまでもなく、向こうから連絡を取ってきたのだ。
 もちろん、『中川典子』であることは伏せ、国生の親類を名乗ってきたが、一也にはすぐにわかった。
 組織に加わりたい意を伝えたとき、彼女は大きく首を振ったものだ。せっかく生き延びたのだから、自分の人生を大事にしろと言ってきた。
 その口調は暖かい優しさに満ち、ある種の諦めや悲しみも感じられた。
 彼女自身の経験を踏まえての言葉であり、一也を止めることは不可能だと悟っていたからだろう。結局、一也の熱意に押され、組織と引き合わせてくれた。
 何ら訓練も専門知識もない一也。できることは限られており、主に後方支援にあたったのだが、プログラム廃止の波の一つになれたことは、一也にいい意味での変化をもたらした。
 反プログラム運動に没頭している間は、角島での死闘を忘れることができたし、廃止に至ったときは達成感を噛み締めることもできた。

 制度崩壊に拍車をつけた鮫島学の名前は、国内外で今でも語り草になっている。自分の名前にプライドをかけた彼にとっては、喜ばしいことだろう。
 彼の母親は行方をくらましていた。
 政府に捕縛されたと言う話は聞かないので、おそらくは外国にでも逃げおおせたのだろう。
 一度しか会ったことはなかったが、ぴりりとした雰囲気を持った賢しそうな(さかしそうな)人物だった。
 そして、これと時を同じくして、樺太キャンプに強制送りになっていた鮫島正樹、学の父親が出奔していた。
 劣悪な環境で有名なキャンプ、生き延びていたこと自体が驚きだったが、あの学が『ヒーロー』と崇めていた(あがめていた)だけのことはあると、純粋に感心した。
 おそらくは母親と合流したのだろう。
 今でも思うことがある。彼らは、学が名を残したことを誇りに思っているのだろうか。それとも、名など残して欲しくはなかった。ただ、生き延びて欲しかったと思っているのだろうかと。


 住まいは東京となったが、一也は度々神戸へと帰っていた。クラスメイトたちの墓前に立つためだった。それぞれの家を回り、焼香することにも挑んだ。
 それは、まさしく「挑み」だった。
 政府の目を気にし外面だけは歓迎の意を見せてくれる遺族。決して家に入ることを許してくれない遺族。あからさまな怒りをぶつけてくる遺族。恐れの目で見てくる遺族。
 いずれにしても、身が切れるような思いをしなくてはならなかった。
 もちろんそれぞれの感情は当然のことだと思ったし、彼らの気持ちを理解しながらもあえて焼香することはただの自己満足に過ぎないことも分かっていたが、どうしてもやり遂げたかった。

 その中で、生谷高志の両親が一也の養親となることを申し出てくれたが、これは辞退した。隣家で、家族ぐるみの付き合いをしていたとはいえ、自分にも相手方にも辛いことだと分かりきっていたからだ。
 ……辞退したとき、高志の両親はほっとしたような表情をしていた。

 担任だった高橋昭彦教諭の墓前にも立った。
 彼は教え子がプログラム対象となることに反対し、銃殺されていた。黒縁の眼鏡をかけ、小役人風の風体をしていた彼。実際、事なかれ主義教師の典型で、楠悠一郎たちの横暴を諌めることができなかった彼。
 そんな高橋教諭がプログラム開催に反対したという事実は、驚きであった。
 これは、夫人にとっても同じ思いだったようで、焼香を済ませた一也に夫人は言ったものだ。
「私、あの人が身体をはってプログラムを止めようとしたことが、今でも信じられないんです。あの人が教育論を語ったところなんて見たことが無いし、生徒さんたちのことを思うようなことを言ったこともなかったから。そもそもそんな覇気のある人じゃぁ、なかったし。でも、あの人、とめようとしたんですねぇ。お国に逆らっても、生徒さんたちを守ろうとしたんですねぇ……」
 夫人の顔は、どこか優しげでどこか誇らしげだった。
 当時はまだプログラム制度の落としどころが定まっておらず、制度に反発した高橋教諭の遺族の立場は微妙なものだったが、彼女は幸せそうに見えた。

 一也がよく知っていたクラスメイト、ほとんど関わりのなかったクラスメイト。事なかれ主義だとばかり思っていた担任。そのそれぞれに、家族があり、生きてきた道筋があり、進むべき未来があった。
 プログラムに、政府に奪われた未来。
 奪うものはやがて奪われる。
 そして、この国は奪われようとしている。しかしそれは、一也たち国民が奪われるのも同然なのだ。





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