OBR1 −変化− 元版


091  2011年10月02日11時


<野崎一也>


 一也は茂みの中を駈けていた。雨と血の匂いが周囲に漂っている。
 徐々に血の匂いが強まり、併せて一也 の鼓動も高まった。
 背後から銃声が聞こえる。黒木優子と羽村京子の戦いの音だろう。あるいは、三井田政信か。すれ違った彼も銃を持っていた。
 気ばかりが焦る。
 たいした距離を走ったわけでもないのに、息が上がり、喉元から風を切る音が漏れた。噛み合わない歯と歯が音を鳴らす。心臓の辺りが傷み、コルト・ガバメントを握った右手でぎゅっと押さえた。
 と、唐突に茂みが切れた。
 雑木林の中、ぽっかりと口を開いた空間。
 明らかに人の手が入って整地されており、中央に石碑のようなものがいくつか並んで見えた。
 そして、石碑からやや離れた位置に、矢田啓太が仰向けに倒れていた。左肩と左腕と、腹と左腿。一見しただけで、それだけの部位から血を流している。とくに左腕に集中的に被弾しており、ひどい状態だった。顔色は蒼白だ。

「啓太っ」
 大きくジャンプした恐怖心を抑え込みながら、彼のそばに駆け寄る。
 野草に包まれた地面にしゃがみ込んだ拍子、藤谷龍二に撃たれた肩口の傷が痛んだ。
「啓太、啓太」
 声に涙が混じっていた。
 雨に濡れた下生えの鮮やかな緑。その緑に上書きするかのように、赤い血の色が広がりつつあった。
 彼の頬は紙のように白く、目は閉じられていた。一也は手を伸ばし、啓太の髪に触れた。抱き起こすと、弱弱しいながらもうめき声が漏れてきた。
 生きてるっ。……けど。
 いったん急上昇した気が乱降下する。

 ぴくりと、彼の瞼(まぶた)が動いた。両目が半開きになる。見えた瞳は、まるで焦点が合っていなかった。痛むのか寒いのか、突然、身体ががくがくと震え出した。
「啓太、啓太……。啓太っ」
 気がつけば、先ほどから彼の名前しか呼んでいない。
 震える手で啓太の頬をたたく。これが契機になったのか、ふっと啓太の焦点があった。見られている。そんな感覚が走る。彼の唇がゆっくり動いた。
「かず……や?」
 がくがくと頷き返すと、啓太は「寒い……んだ」消え入りそうな声を押し出してきた。
「分かった」
 制服の上着を脱ぎ、掛けようとして、ふと手を止めた。

 ……まずは、止血。

 苦労して彼の上着を脱がせた。
 カッターシャツは血で貼りついていたので、平屋から持ち出した果物ナイフで切り裂いた。露出した啓太の上半身。よく見なければどこを撃たれたのか分からないほど、出血で真っ赤に染まっていた。
 マシンガンの銃弾は、啓太の左側面を掠めたらしい。まともに食らった左腕は、見るも無残な姿になっていた。例え生き残ったとしても、もう左腕は使えないだろう。
 ……体心を撃たれなかっただけ幸いというべきなのだろうか、これは。
 怒りと恐怖と焦燥。
 様々な感情に押しつぶされそうになりながら、自分のディパックからタオルを取り出し、とりあえず啓太の腹にあて、簡易医療セットに入っていた包帯で巻き止めた。
 そうしておいて、今度は、自分が上着とカッターシャツを脱ぐ。
 カッターシャツは切り裂き、その生地で啓太の左肩と左腿をきつくしばり、止血とした。

 自分の制服の上着を啓太の肩にかけ、そしてその上から彼の上着をかけた。腕を通してやりたかったが、そうするためにはまた無理な体勢を取らせることになる。
 仕方なく、強引に前で合わせた。
「かず……や、も、怪我している」
 囁くような声で、啓太が言う。彼の唇は色を失い、その代わりに吐血で紅く染められていた。
「俺は大丈夫だからっ」
 実際のところは、黒木につけられた左腕の傷は軽いものではなかったし、今も熱い痛みに襲われていたのだが、そう答えておく。彼を安心させるために、Tシャツを脱ぎ、自分の腕に巻いた。
「……安東に、気をつけて。あいつ、マシンガン……持ってる」
 続く啓太の言葉。鮫島学に見せてもらった政府の極秘ページ、今朝の段階で啓太と安東和雄が同じエリアにいたことを思い出す。彼らは一緒に行動していたのだろう。そして、安東が啓太を撃った。

「寒い……んだ」
 啓太が先ほどと同じ台詞を復唱する。
 後ろから抱きかかえた。
 自分の体温などなくなればいいと思った。全部、啓太の体の中に入ればいいと思った。

 血の匂いに混じって、汗の匂いがした。
 こんなときなのに、一也の拍がどきりとあがる。
 傷ついた啓太を見て十分にあがり切っていたのだが、別の意味での、どきり、だった。啓太には申し訳のない話だが、15歳の男が女の子を思うように、彼を性対象として見たことがあった。
「ごめん、啓太、ごめん……」
 ごめん、君を汚して、ごめん。ごめん、君を好きになって、ごめん。
 文字通り夢にまで見た啓太の肌。それは、血に濡れていた。

 さらに謝る。
 ごめん、間に合わなくて、ごめん。……もっと、早くに勇気を持っていれば、もっと早くに啓太のことを探しに出ていれば。傷つき、倒れていたのは、お前ではなく、俺だったのかもしれないのに。
 同性愛者に生まれた自分を蔑み、傷つけながら生きていた日々。
 そんな俺の心を救ってくれたのが、暖かく照らしてくれたのが、お前だった。
 啓太はいつだって穏やかに笑ってた。啓太なりに面白くないことも悩みのあるのだろうに、そういった負の感情を、その穏やかな笑みの下にしまい込んでいた。疲れきっていた俺にとって、啓太の穏やかさは、救いだったんだ。啓太の強さは憧れだったんだ。
 啓太を好きになった俺は、自分のことを少しだけ好きになれた。啓太と一緒にいると、俺の心は、毒々しい黒い水を吸った俺の心は、軽くなる……。

 ここで、一つの疑問を得る。
 痛く……ないのか?

 これだけの傷を負っているのに、啓太は先ほどから「寒い」としか言わなかった。「痛い」という言葉もなく、痛みに耐えている風でもない。
 それは、懸念すべきことだった。
 胸苦しいほどに鼓動が高まる。啓太を抱えていないあいた手で胸をぎゅっと押した。呼吸を細かく刻み、自分を落ち着かせる。そして、できる限り平静を装い、囁くような声を唇の上に乗せた。
「……啓太?」
 啓太は、「ともだち」と存外にはっきりと返してきた。
「え?」
「お前は、いい、友達だ」
 彼が噛みしめるように言う。上を向いている頬には血の気が感じられない。

 一也は、この修学旅行(プログラムに予定変更されてしまったが)の前日、啓太に告白していた。
 彼は、困ったような顔をして、「少し考えさせてくれ」と返してきた。
 もちろん、付き合うとか思いが届くとか、そんな非現実的な返答は期待していなかった。ただ単純に、「同性愛者の自分を、啓太は、友人として受け入れてくれるのだろうか?」それだけが気になった。
「受け入れてくれたら、いいな。友人として受け入れてくれたら、いいな」
 淡い期待、一也なりのささやかな期待に胸を膨らませながら、クラスごとのバスに乗り込んだものだ。
 そして、答えを聞くために、ここまで生き延びてきた。
 聞きたかったはずの答え。
 嘱望したはずの答え。
 しかし、一也は、「そんなこと、どうでもいい!」本気で叱咤した。自分でも驚くほどの怒声になった。胸がかっと熱くなり、心臓のドラムが狂おしい轟音をたたき出す。
 そんなこと、どうでもいいからっ。
 俺の望みなんてどうでもいいから! 生きることをっ。生きることを考えて!
「そんなこと、どうでもいいから、生きてくれ!」
 叫んだ。心の中で叫び、声に出して叫んだ。
 こんなときまで啓太はお人よしだった。誠実に、一也の投げかけに答えてくれた。答えを聞かせてくれた。だけどそれは、今この時点の一也が望むことではなかった。
「い、生きて、お願いだから……」
 力なく呟く。
 答えなんて聞きたくない。そんなことよりも、彼が生きていてほしいと、ただ願うだけだった。

『俺、啓太に会ったら、死ぬよ』
 鮫島学に言った台詞だ。啓太に会ったら、彼の代わりに死ぬつもりだった。自分の代わりに啓太が最後の一人になったらいいと思った。
 なのに、なのにっ。
 ぽとりと、涙が落ちる。嗚咽が洩れる。抱きかかえているせいだろうか、啓太の命が潰えていく(ついえていく)のが残酷なほど正確に分かった。

「……はっ、はっ……」
 徐々に弱まっていく吐息とともに、啓太の身体から力が抜けはじめた。弛緩する全身を一也の腕に預けてくる。天を仰ぐ、血の気のない顔。汗と泥と雨と血に濡れた顔。
 と、啓太の無事だった右腕がゆらりと上がった。
 かけていた上着が地面に落ちる。啓太の裸の腕が、宙をさまよった。
「……啓太?」
 一也の声を聞いたのか、啓太の指先がぴくりと動いた。一也の口元に手が近づいてくる。声の方向に腕を動かしたのだ。それは、彼の双眸(そうぼう)が、すでに一也の姿を捉えていない証拠だった。
 貧血状態がひどすぎて、視力を失ったのだ。

 啓太が吐血で真っ赤に染まった口を開けた。
「よかった……」
「え?」
 反問する。しばしの沈黙。その後、啓太がかすれた声で言った。
「一人じゃなくて……よかった。一人で死ぬんじゃなくて、よかった」
 彼の右手の指先が、わななく一也の唇に触れる。冷たい。絶望的に冷たい指先だった。
 痛みを感じていなかった啓太。最後の最後に神は彼を裏切った。
「う、あ、ああああああっ」
 背をのけぞらせ、痙攣(けいれん)する。激痛に苦しむ啓太の身体を抱きしめるが、他に何をしていいか分からなかった。
「啓太、啓太、啓太ぁ!」
 滲む涙の量が増える。彼の身体を抱きしめ、名前を繰り返し叫んだ。

 やがて、啓太の身体から力が抜けはじめた。そして、ぶるると胴震いをしたかと思うと、血を吐き、動かなくなった。
「……け、啓太?」
 喘ぐように彼の名を呼ぶ。
 頬を平手で軽く叩く。
 肩を揺する。
 何をしても反応はなかった。

 一也は、自分の身体の中で何かが割れる音を聞いた。初冬の池に張る薄い氷、水中を見透せるような薄い氷。何かそのようなものが割れる音だった。
「う、そ、だ」ぶつ切りの言葉を落とし、地面に座り込む。
 頭の奥の方が痺れたようになっていたが、言葉とは裏腹に、一也は啓太の死を理解していた。
 拭う気力もないので滲む涙をそのままにしていたら、ぽろぽろとこぼれ落ち、やがては肩を震わせながら泣いていた。

 その涙には、啓太を失った悲しみの他に、新たな感情が含まれていた。
 悦びにも似た殺意。
 単純に、嬉しかった。悲しみに圧し潰されそうになっている一也にとって、恨むべき存在があることは喜ばしいことだった。
 もちろん分かっていた。実際に手を下したのは安東だが、真の意味で啓太を殺したのは、政府だ。誰もが加害者で被害者で。絶対の正義などなくて。恨むべきは安東和雄ではない。しかし……。
 鼓動が高まり、胸が熱くなる。自分でも驚くほどに高揚していた。
 程近い距離から聞こえる銃撃音。誰かが戦っていた。理屈ではない、直感で分かった。……安東だ。安東が戦っている。
 そして、戸惑いながらも、湧き上がる衝動を両手で受け止めた。
 平素の一也は冷静な人間だ。何か一つの感情に囚われることもほとんどない。同性愛者であることをひた隠しにする、気持ちを押し殺すことに慣れた一也ならではのパーソナリティだ。
 だけど、今このときばかりは、一つの激情に支配されることを選んだ。

 ゆらりと立ち上がる。今から自分がしようとすることが間違っているのか正しいのか。そんなことはどうでもいい。ただ、安東を殺したかった。啓太が感じた苦しみや痛みを安東にも味あわせたかった。
 踏み出す足を押しとどめるかのように涙が地面に落ちたが、一也はそれを踏みつけた。


 
<矢田啓太死亡。残り04人/32人>


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バトル×2
野崎一也
同性愛者であり、矢田啓太を好いていたことを隠していた。矢田啓太を探していた。
矢田啓太 
一也と親しかった。安東和雄がクラスメイトを殺していることに気づいていなかったが、ついに気付き、逃げ出した。