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087
2011年10月02日10時 |
<永井安奈>
見ると、鮫島学
の左足が真っ赤に濡れている。制服のグレーのズボンが、赤黒い色になっていた。先ほど腰に撃ち込んだ一発が効いてきたらしい、学の身体がぐらりと揺れた。
また、右手の甲からも血がぼとぼとと落ちていた。
よし、長期戦になれば有利。
逆に長期戦になれば不利と判断したのだろう、短期決戦とばかりに、学が包丁を握りしめ突進してきくる。
……学も安奈
も、余計なことは何一つ話さない。無駄だと知っているからだろう。互いに明確な殺意があった。この時点で、安奈は完璧に自分をコントロールできていた。
と、威嚇のためだろうか、その途中、デスクの上に置いてあったティディ・ベアを取り上げ、投げつけてきた。右手で投げてきたので、ティディ・ベアは血に染まっていた。
ティディ・ベアは安奈の頭の上を通り過ぎ、廊下の壁にあたった。跳ね返り、スタンガンが落ちている場所よりも手前、入り口横にある本棚の下で止まる。
いきなり物を投げてくるとは思っていなかったので、思わず目を瞑ってしまう。
しかし、その中でも身体を捩っていた(よじっていた)おかげだろう、安奈の胸元を狙っていた学の包丁の刃は、安奈の左腕を切るに終わった。
それでも傷は深く、安奈の左半身が血で濡れた。
フローリングの床に二人分の血が流れ落ち、たちまち紅い池ができた。もみ合ううちに、その血に足を滑らせ背中から転んでしまう。ベッドのへりに強か(したたか)腰を打ち付け、安奈はうめいた。ジグ・ザウエルが手から離れ、ベッドの上に落ちた。
ここに、学が膝を折る勢いそのままに、包丁を振り下ろしてくる。
安奈は部屋の入り口の方に後じさりながら、意図せず腕を前に出した。
狙ったわけではなく、たまたま左手だった。傷ついた安奈の左腕からぴぴっと血が飛び、学の目に入った。これで学の目測が狂い、包丁の刃は、さきほど安奈が学に投げつけた駆け布団に沈んだ。
学が包丁を引き抜くと、羽毛がまた部屋の中を舞った。
血の海の中をひらひらと舞う、羽毛。
こんなときだが、安奈の目には、それは、ひどく幻想的な光景に見えた。
しかし、今はそれどころではない。
学が目をこすっている間に、彼の包丁を蹴り上げる。包丁は宙を舞い、本棚の隅に刺さった。そして、今度は両手で自分の包丁を握りしめ、学の腹に突きつけた。 「う、あぁぁぁぁっ」 喚きながら、真一文字に切り裂く。
大きな傷だ。学が身体をくの字に曲げ、血を吐いた。と、学がポケットに手を入れたように見えた。
……まだ何か武器が?
思わず身構えるが、どうやらフェイクだったらしい。身体の動きが止まったところを狙われ、両肩を掴まれてしまった。学の腹から、どぼどぼと血が流れる。
一瞬、学と正面から見つめ合う。
彼の眼鏡がいつの間にか飛んでいた。眼鏡越しではなく、そのままに見える充血した彼の三白眼が、すっと遠のいた。身体を仰け反らせたのだ。
何?
と、疑問に思うや否や、がんっと、頭突きを食らった。
今度は安奈が身体を仰け反らせる番だった。あまりの衝撃に、目の前がチカチカした。そのまま倒れ込む。開いていたドアを越え、廊下に上半身が出たのを感じた。
「ごっ」
学が短く叫んだかと思うと、何かを押し付けてきた。
「ぎゃっ」ばちばちっと火花が飛び、身体の中に電流が走った。
先ほど落としたスタンガンを拾われ、やられたのだ。
通常の電圧だとここで気絶していたのかもしれないが、このスタンガンは電圧を低めにカスタムされたものだった。目を瞑り、気絶したふりをし、学を安心させた後、彼の傷ついた腹にパンチを見舞った。
座り込んだ体勢、また電圧が低いとはいえスタンガンの影響は受けていた身体、たいした力を込めることはできなかった。
しかし、これが効いたのか、学が崩れ落ちるのが見えた。
やった!
気が上がる。だが、これもフェイクだった。学が「はちっ」と言い捨て、飛びのく。
先ほどつけた腹の傷から血が流れていたが、頓着していないようだった。そして、そのまま背を向けて窓の方へと駆け出した。
「えっ?」
まさか、逃げ出すとは思っていなかったので、戸惑う。
立ち上がろうと中腰になった瞬間、「じゅっ」という学の声が聞こえ、足元でかっと何かが光った。
白い光が部屋を染めたかと思うと、何かずっと押し上げられるような感覚が安奈に走る。轟音が鼓膜を破り、安奈の世界から音が消えた。
そして、爆風に襲われ、ベッドに転がり込んだ。先ほどは腰だったが、今度は腹部をベッドの木枠に打ち付ける。
なぜか、痛みは感じなかった。
賢しい(さかしい)彼女は、一瞬で事態を把握する。
「ば…く、だん?」
とにかく、状況を確かめなくては。ダメージの確認。武器の確保。……あと、なんだ?
冷静に考え、身体を見やる。
……そして、叫んだ。
右足が、お気に入りのジーンズごともぎ取られていた。安奈の白かった肌が、ずるりと爛れて(ただれて)いた。
叫んだ。叫んだ。叫んだ。
しかし、鼓膜が破れた彼女には、何も聞こえなかった。
無音状態の中、安奈は叫び続ける。と、ふっと視界が暗くなった。
な、に?
見上げると、入り口横に置いてあった本棚が崩れ、迫ってくるところだった。爆風で下方が壊れ、立っていられなくなったのだ。
不思議に本棚が倒れた轟音だけは、安奈の耳に届いた。
あるいは、そう思っただけかもしれない。
地響きのような音を聞きながら、安奈は本棚に押し潰された。
<鮫島学>
爆破の衝撃で窓の辺りまで飛ばされていた学が目を開き、軽く瞬きをした。
どうやら、生きている。
そして、つい先ほどの安奈と似たような思考をした。
まず、永井の生死を確認。ダメージを確認、退路を確保、武器を確保。
うつ伏せに倒れこんでいた体勢から、両手をつく。ついで両膝をつき、四つんばいになった。そして、デスクの脚を頼りに、立ち上がる。
行動の一つ一つが億劫でたまらなかった。
背中がやけにごわごわするので、左手で探ってみたら、ひどい火傷を負っていた。
ポケットに入れていた附属のリモコンのボタンを押して10秒後に爆発。ただし、その殺傷能力は低く、相手が抱きかかえた状態でかろうじて殺せる程度。
支給武器である『リモコン爆弾内蔵ティディ・ベア』についていた説明書の文言だ(試合開始7)。
威力が弱いとはいえ、巻き込まれる危険性の高い爆弾は、最後の最後の手段だった。使わずにすむのなら……と、思っていた。
まぁ、結局は、使うことになったのだが。
小規模の爆発だったが、被害は相当のものだった。
二面を占めていた本棚は崩れ、永井安奈がその下敷きになっていた。
彼女は至近距離で爆破を受けた(そうなるように戦闘を進めたのだが)。片足がもげたようで、部屋の入り口近くに焼け焦げた脚が一本落ちていた。
床の方々に落ちた書籍や布団に火がついており、黒い煙が部屋を薄く覆いつつあった。
じきに本棚や床壁にも火が回るだろう。消防車の到着など望めないこの状況、この家が焼け落ちるのは目に見えていた。
撃たれた右手と腰の傷は、貫通していたし、即死に至るほどではなかったが、切り裂かれた腹は重傷だ。
その後無理に動いたせいもあって、腸がはみ出ているような気がした。
永井安奈のことは少なからず気にかけていた。そんな彼女と戦わなければならなかったことは辛いが、そうしなければ自分が死んでいたのだから仕方がない。
狂おしいほどの痛みに耐えながら、ずるり、身体を動かし、デスクに向き直る。
デスクの上に置いてあったノートパソコン、とりあえず外見(そとみ)は無事だった。電源はもともと入ったままだったが、画面が落ちている。両手で持ち、揺らすと、ぶんっと音がして立ち上がった。
若干ノイズが走るものの、大きな破損はないようだった。
利き手である右手を撃たれてしまっていたので、左手で苦労しながらマウスを操作した。アイコンをクリックし、メーラーを起こす。
そして、下書きフォルダに入れてあった一通のメールを出す。
そうしている間にも、大量の血液が流れつづけていた。
すでにメールアドレスとタイトルは入力済みだった。
タイトルは、『母さんへ』。本文はまだ何もかかれていない。
そう、母親へ向けたメールになる予定だったものだ。
数時間前、学は坂持国生に「母親のことを嫌悪していた」と話し、戸惑わせていた。
これは、本当のことだった。
学の父親である鮫島正樹が、反政府運動に荷担した罪で強制キャンプ送りなって以来、父親の会社を切り盛りしたのは母だった。その際に母は、「女の武器」を積極的に使っていた。端的にいえば、身体を使ったのだ。
このことに学は、大きな嫌悪を感じていた。ほとんど憎しみと言ってもいいぐらいだった。学にとって父親は『ヒーロー』だった。その妻が裏切るだなんて、許しがたいことだった。
これは、学がまだ恋愛経験に乏しく、女性と「そう言うこと」になったことがないことも影響しているのかもしれない。思春期特有の、ある種の潔癖さに学は捕らわれていた。
だけど、頭のどこかでは分かっていた。
そうしなければ、彼女は、夫の会社を守れなかったのだ。やがて夫が帰るその日まで、会社を潰すわけにはいかなかったのだ。
……帰るはずもないのに。
学もまた、一也らに「いつかは帰ってくる」と言っていたが、それは願望でしかなかった。リアルな感情としては、諦めていた。
政治犯に課せられる強制労働の過酷さは、有名な話だ。
ほとんどが一年ももたないという話を聞いたことがある。
父がキャンプ送りになってからすでに二年以上経っている。現実的に考えて、生きているはずが無いのだ。
しかし、母は諦めない。はっきりと夫の死報を聞くまでは、諦めない。
血を吐き、身体を売り、プライドを削る。夫の会社を守り育てるためなら、使えるものは何でも使う。屈辱的な思いも厭わない(いとわない)。それが、彼女のプライドだった。
母のプライドは厚く、固い。削っても削ってもなくならない。そう、彼女は、気高く、美しかった。
「プライド」学の好きな言葉だった。このプログラム中も、常に己に「プライドを持て」「できることをやれ」と言い聞かせてきた。
学のこの性質は、父親譲りではなかった。母から受け継いだものだったのだ。
分かっていた、分かっていた。
だけど、オレは、彼女を嫌悪した。汚らわしいと、はねつけた。
……ガキだったから。どうしようもなく、ガキだったから。
メールの画面を睨みつける。
何を書いていいやら分からず、プログラムに巻き込まれてからずっと、メーラーを立ち上げては落とし、立ち上げては落しを繰り返してきた。
一度、野崎一也が急に部屋に入ってきて、驚いて画面を落としたこともあった。
何を。何を? ……オレは、いったい何を書けばいい?
プログラムの実態は、トトカルチョも含めて、すでに世界各国の各種団体にぶちまけている。
この国は、今までやってきたことの手痛いしっぺ返しを食らうだろう。
誰がやったかなんて、すぐに分かる。オレの名前が、「鮫島学」の名前が、衝撃とともに政府に知れ渡るんだ(ちょっと、大げさかな)。その謗り(そしり)は、母にも及ぶだろう。彼女は、一刻も早く、身を隠さなければならない。
と、喉元が焼けるように熱くなり、吐血した。両手で抑えたのでノートパソコンに大量にかかることはなかったが、画面に紅い血しぶきが飛沫した。
体温が落ち、目の前がちかちか点滅しだした。まずいことに、痛みを感じなくなってきていた。
ガクガクと震える指先で、タイピングする。
『ごめんにげて』
たった六文字の言葉を打つのも一苦労だった。
ブラインドタッチなんてお手の物だった、このオレが、だ。
ゆっくりと送信ボタンを押しながら、くっくと含み笑いをする。どういうわけか、テンションが上がってきていた。
自分がしたことで母親の立場が危うくなることは、容易に予測できる。おそらくは捕縛されてしまうだろう。そうなる前に、彼女は逃げる必要があった。
本当ならば、もっと状況を説明し、注意を促したい。しかし、それだけの体力が学には残されていなかった。
だけど……。
たいした根拠はないのだが、これで自分の思いは伝わるはずだと、学は確信していた。
あの父の妻であり、このオレの母である女が、聡明でないはずがない。
学らしい思考だった。
こうしている間にも火が回りつつあった。これ以上ここにいたら、焼け死ぬ前に煙にまかれてしまう。
どうする? ベランダから庭にでもダイブしようか。
もう一度、唇の端を歪め、笑みを浮かべる。
死にたくない。その感情は確かにある。
だけど、焼け死ぬのか、煙りにまかれて死ぬのか、出血のショックで死ぬのか、転落死するのか。いずれにしても、自分には「死」しか待っていないと分かっていた。
それより何より、今この瞬間生きていること自体が奇跡みたいなものだった。それだけの重傷だった。
ここで、学は何か乾いた音を聞いた。同時に背中に衝撃を受ける。目の前のパソコンの画面が砕けた。
半回転し、ベッドの方向に倒れこんだら、永井安奈が見えた。
変わらず本棚に押し潰された体勢。しかし、その手にはいつの間にかジグ・ザウエルが握られていた。撃たれた弾が身体を貫通し、パソコンを破壊したのだ。
まだ、生きてたの……か。
だが、これで正真正銘事切れたらしい、がくりと首を垂れ、動かなくなった。
彼女の死を見届けてから、学はまた笑みを浮かべた。得意の、皮肉めいた笑み。
最期に、思った。
焼け死ぬのか、煙りにまかれて死ぬのか、出血のショックで死ぬのか、転落死するのか。
……好きな女に殺されるのか。
そりゃぁ、ちょっと、ロマンチックに過ぎやしないかい?
<永井安奈、鮫島学死亡。残り06人/32人>
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永井安奈 優等生に見えて、陰では悪さをしていた。
鮫島学 クラス委員長。政府に一矢報いたいと考えている。以前から永井安奈の裏に気づき、気にかかっていた。
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