OBR1 −変化− 元版


083  2011年10月02日09時


<中川典子>

 
 中川典子が勤める会社は、大阪ブロックのいわゆる「キタ」エリアにある。
 ここ数年で段階的に解禁されつつある個人輸入の代行をメインに営む会社で、小規模ながら上々の業績をあげていた。
 英語が出来る典子は、仕事柄重宝され、待遇もいい。
 建前と本音の嘘の使い分けが上手い大東亜共和国。外国語教育は古くから行われていたが、やはり準鎖国政策の影響で外国語能力の堪能な者は少なかった。
 会社は、本通りから二本内に入った五階建てのビルのワンフロアを借り切っている。
 今は、受け付けから何からワンフロアでなんとか収まる。だけど数年後には、おそらくもう少し大きなビルに移ることになるだろう。概ね景気の悪い昨今、それは喜ばしいことだった。

 朝の業務を一山終わらせ、ふっと息をついた典子は立ち上がり、給湯室へと向った。
 サーバーからコーヒーを注ぐ。カップはよくあるプラスチック製ではなく、個人の持ち寄りだ。洗い台には湯のみやマグカップが並んでいた。女子社員にお茶くみをさせない一方で、どこか前時代的な雰囲気もある、そういう会社だった。
 と、典子はカップを落としてしまった。
 がしゃり、カップが割れ存外に大きな音が響く。床にコーヒーの黒い色が広がった。
 衣服にまでは飛ばなかったが、靴にはかかった。
「ああ、もう」
 シンク脇に置いてあった雑巾(ぞうきん)を取る。

 音を聞いて覗きに来たらしい。
 同僚の貴島が、「うっわ、大丈夫? ケガしなかった?」と声をあげた。
「大丈夫」
 典子がカップの破片を拾おうとしていると、「あ、僕がやるよ」と膝を折る。
「え、いいですよ」
「だって、秋ちゃんの白魚のような指が傷つきでもしたら、大変」
 にっと笑って軽口を叩く貴島に、「やぁ、だ」と典子も笑いを返した。
 貴島が破片を拾うはしから、雑巾でコーヒーを拭き取っていると、ふと『陶器が割れるのは、よくないことの知らせ』というフレーズが頭によぎった。
 古典的な寓話だ。
 前田秋実(あきみ)。
 典子が世間的に名乗っている名だ。戸籍を買うときにいくつか候補があったのだが、名前に、七原秋也の『秋』が入ってるのを見て、これを選んだ。

「ねぇ、今夜、ご飯でも食べに行かない?」
 貴島の誘いに、「今日は、ジムだから」と答える。
 典子は身体を鍛えるために、定期的にジムに通っていた。もし、貴島の誘いが成功し、さらに進み、彼女と寝る機会に恵まれたとしたら、衣服の下の筋肉質な身体に目を剥くだろう。
「つれないなぁ。じゃ、またの機会に」
 ぽりぽりと頭をかきながら、貴島が言った。
 とくに気を悪くした様子もない。もともと女子社員の方々に気安く声をかけている男だ。
 しかし……。

 貴島がデスクに向った後、入れ違いでやってきた真野さゆりが、「あーあ、貴島くん、落ち込んでたよ」と小声で囁いた。
 自分のカップを取り、コーヒーを入れる。
「後で、アタシのカップで飲む?」
「うん、お願い」
 貴島と典子、そしてこのさゆりは年代が近く、会社では仲がよかった。
「貴島くん、最近は秋実一筋なんだから」
「そんなことないでしょ」
 軽く笑いを返しながら、やっぱりそうかと一人頷く。昔は剥き出しの好意を寄せられても気がつくことができなかった。だけど今はそれとなく察知することができる。
 これも大人になったからと言えるのだろうか。
 『大人』にはなることの出来なかった国信慶時を思い浮かべながら、ふっと息をつく。

 いや、ノブさんだけじゃない、幸枝も聡美も、……シューヤも。みんなみんな大人にはなれなかった。
 死んだクラスメイトたちの顔が浮かんでは消えた。
 アメリカ国に渡って一年ほどしたところで、七原秋也は命を落とした。
 坂持国生に話したとおり(中盤戦48)、別れた恋人に襲われていた女の子を助けようとしての死だった。
 プログラムの死闘をせっかく乗り越えたのに、そんな理由で死んでしまう。だけど、彼らしいといえば彼らしい死だった。秋也が間に入らなければ、あの女の子は死んでいたのかもしれない。

 彼らが死んでから10年と少々。
 記憶や悲しみは、すでに生々しさを失っているが、乾いてもいない。
 ……秋也への思いも。唐突にいなくなり、中途半端に断ち切られたせいだろうか、彼への想いは、いまだ典子の中にある。
 ただ、感傷に近いものにはなりつつあった。仮に、あの頃の秋也が今目の前に現れたとしても、死んでしまった当時の秋也が現れたとしても、思い焦がれることはないだろう。
 10数年の歳月とはそう言うものだ。

 と、今度は派遣の女の子が給湯室に顔をだし、「前田さん、お電話です」と言ってきた。
 デスクに戻り出てみると、シブサワだった。
 話は少し長くなるとこのこと。内線で他の者に聞かれるとやっかいだ。典子は財布を掴むとビルの外にある公衆電話へと向った。
 国生に言ったとおり、政府は典子にさほど執着していない。
 が、まったく無視されているわけでもないので、前田秋実が中川典子であることを既に掴まれ泳がされている可能性もある。携帯電話盗聴は警戒する必要があった。


 シブサワは、典子が関っている反政府組織の中心人物の一人だった。
 組織は主に東京で活動しているが、関西にも支部のようなものがある。普段は組織の資金を稼ぎ、活動のときは後方支援にあたる。典子も給金のほとんどを組織に渡していた。
 シブサワは、関西におけるリーダーだ。
「驚かずに聞いてくれ、典子さん」
 五十を越えているはずだが、彼はいつも「典子さん」と呼んでくる。それは、彼が礼儀を持った人間なせいもあるが、典子の微妙な立場のせいもあるだろう。
 反プログラムだけを掲げているわけでもないが、プログラムで大切な人を失ったことから組織に身を投じた者も多い。
 シブサワも子どもを殺されたらしい。
 『プログラム生存者』である典子は、組織の意気を上げる旗印であるとともに、厄介者でもあった。

 一度は、反政府運動を捨て、普通の生活を送った。二十歳前後の数年間のことだ。このときに知り合った男性もいた。友人もいた。……幸せだった。
 過去の記憶に目を瞑り、矛盾や怒りから目をそむけ、誤魔化し誤魔化し生きていく。
 今からだって、その生活を選ぶことは出来る。
 組織にとっての典子は、ただの象徴でしかない。いなくなって清々する者もいるだろう。
 貴島はあれで誠実な男だ。真野さゆりもいい友人だ。

 次いで聞こえたシブサワの言葉は典子には伝わらなかった。いや、伝わったのだが、受け取りを拒否された。
「え?」
 聞きなおす。
「坂持国生が所属するクラスがプログラム対象になった」
 シブサワは淡々と繰り返した。
 そして、今度はいくらか感情の篭った声で言った。
「担当教官の息子が……。因果なものだな。昨日の0時スタートのようだ。もちろんまだプログラム中だが、あの政治家のルートを使えば、結果のレポートは手に入れられる。優勝者のその後も追うことが出来る。どうする?」
 国生が最後の一人になるとは思っていない口調だった。
 国生が関西に来ていることを教えてくれたのは、シブサワだ。彼も国生の身体のことは知っていた。病弱な国生が生き残る目は少ない。

 国生くんが……。
 病気のせいか顔色が悪く可哀想なほどに痩せていたが、その一本気さを象徴するような太い眉や強い光を放つ瞳を持った少年だった。
 正義感が強く、どこか秋也に似た雰囲気を持った少年だった。
 そして彼もまた、剥き出しの不器用な好意を示してきてくれた。そう、国信慶時のように。そして、あの頃の自分のように。

 先ほど冗談めかして誘ってきた貴島も、15のときはそれなりに不器用だったのだろう。
 自分だって成長した。これからも成長する。人生を進める。
 誰かと一緒になる未来もあるだろう。それは貴島だろうか、組織の誰かだろうか、それともまだ出会っていない誰かだろうか。
 人は皆、成長する。人生を進める。何かを切り捨て、何かを拾い、生きていく。
 私はシューヤへの思いを切り捨てることになるだろう。少しずつただの思い出になりつつあるけれど、核はずっと残っている。私はいつか、その核を捨てる。教師になる夢を捨てたように。
 そして、代わりに何かを拾う。
 それは等しく尊いことだ。残酷で幸せな当たり前のことだ。
 そんな当然誰もが持っている権利を、よりにもよって政府が奪う。許されることでないと思う。
 反政府運動を続けることに迷いはある。しかし、それはメンバーの誰もが抱えている感情だろう。誰だって強くは無い。
 だから、勇気を振り絞り、戦う。……私も。

 迷いかけた心を叱咤し、戦う意志を確認する。そして、ふっと、笑みを浮かべた。坂持国生と、数年後の成長した彼と歩む未来もあるのかもしれないと思ったからだ。
 ……彼が生き残ればの話だが。
 典子の顔から笑みが消える。
 坂持国生がプログラムに巻き込まれたことへの現実味を感じ、青ざめた。
 受話器を握りしめていると、「あと、もう一つニュースだ。こっちは朗報」シブサワが言う。
「萩の大老が倒れた。……もしもし? 典子さん? もしもし?」
 回線の向こう、シブサワの声がこだまする。
 典子はそれを呆然と聞いていた。



<残り09人/32人>


□□  バトル×2 1TOP ご意見ご感想 更新お知らせ登録