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082
2011年10月02日09時 |
<結城美夜>
ふっと頬に冷たいものが当たり、美夜
は目を覚ました。
ぐるりと見渡すと、そこは、住宅街の中にぽっかりと浮かぶ空き地だった。その中ほどに、美夜は軽く背を丸めた状態で横たわっていた。
見上げた先は曇天で、小雨がぱらついている。空き地の所々に群生する草木に露がついていた。
正気と狂気の狭間、美夜は置かれた状況を把握する。
藤谷龍二に衣服を剥がれた(はがれた)ままのため、肌に直接地面が触れ、ちくちくと気持ち悪かった。また、気がつくまでの間に雨に打たれたらしく、一糸纏わぬ身体はすっかり冷えていた。
どうやら、藤谷龍二に撃たれたショックで気を失っていたようだった。
なんだかとても、身体がだるかった。指先を動かすことすら、億劫でならなかった。
銃弾は幸い貫通したようだったが、出血がひどい。腕をあげることができないので、腕時計で時刻を確かめられず、気絶してからどれだけの時間がたったのか分からなかった。
周りに広がる自分の血と龍二の血の匂い。
その前に浴びた津山都や飯島エリの血の匂い。
龍二が撃った弾はどうやら急所を外れたらしいが、このまま治療を受けないでいたら、じきに命を落とすことは目に見えていた。
しかし、彼女が気にしているのは、和人形の美夜子のことだけだった。
重い首を横に向け、傍らの「呪いの人形」を見つめる。
美夜子と名付けた、生後間もない赤ん坊ほどの大きさの和人形。黒地に紅い流線模様の入った着物姿だった。藤谷龍二が撃った弾は、人形の左肩のあたりに着弾しており、着物は裂け、人形の白い首筋から左頬にかけて亀裂が入っていた。
み、や、こ。美夜……子。返事を、して。返事を……。
手を伸ばし抱きしめたかったが、腕を動かす力が出せなかった。仕方なく、心の中で声をかけるに留めたが、返事はなかった。
少し前からあまり反応は感じなかったが、存在感は少なくともあった。
その存在感そのものが消えつつあることに、彼女は戦慄を覚えた。
ああ、美夜子、が、美夜の子どもが、死んじゃう……。
楠悠一郎を殺してくれた。久永辰則を殺してくれた。重原早苗を殺してくれた。美夜が嫌いだった子たちを呪い殺してくれた。たくさんたくさん頑張ってくれた。頑張って疲れてたのに、美夜のためにやってくれた。その、美夜子が死んじゃう。
ごめんね、美夜子。あなたを守ってあげられなくて、ごめんね。
藤谷龍二に人形の黒い瞳を見つめ、美夜はぽろぽろと涙を流した。
撃たれた身体は痛み、彼女を締め付けていたけれど、彼女は決して泣かなかった。
美夜子人形に出会う前、プログラムに巻き込まれた運命を呪ったときも、死への恐怖に震えていたときも、決して泣かなかった。
そんな彼女が初めて見せた涙だった。
と、かすかに足音がした。地面を踏み近付いてくる足音がだ。
「こりゃ……、ひどい」
男子生徒の声。
日頃から目立たず、教室でも静かにしていた彼女は、男子生徒との交流はほとんどなく、それが誰の声であるか判別がつかなかった。
「結城と、そっちは藤谷だね」
次いで聞こえた声に、はっとする。それは、彼女の「天敵」だった羽村京子の声だった。
狂気にふれた美夜の脳内に、忌まわしい記憶が蘇る。
今の彼女の髪は肩を越えるほどだが、もともとは腰の辺りまでの長さだった。長く艶やかな黒髪は、彼女のたった一つの自慢だった。
しかし、夏休み明けの放課後、羽村京子に「うぜぇんだよ、その髪」と切られてしまったのだ。
京子からすれば軽い気持ちで、もしかしたら「身体に傷がつかないだけマシだと思いなよ」などと考えながらしたことなのかも知れないが、美夜は深く深く恨みに思っていた。
「様子、見てみるな」 先ほどの男子生徒の声がし、誰かが美夜の傍らに立った。
そして、彼女が生きていることに気がついたのだろう。
「羽村っ、結城は生きてるよっ」京子に声をかけた。
近付いてくる駆け足の音がし、視界が陰る。曇天越しのかすかな太陽光を遮っているのは、羽村京子の顔だった。
美夜子人形を見るために横を向いていた彼女の首を、京子が持ちあげ、あお向けにする。そして、ペットボトルから水を出し、ハンカチを湿らせ、美夜の口元についた藤谷龍二の血を拭った。
「お前……。藤谷をやったのか? 抵抗したのか?」
相変わらずの素っ気無い口調だったが、どこか温かみもあった。
しかし、美夜には届かなかった。
残った力を振り絞り、唇を拭う京子の指先に噛み付く。
「うっ」
京子が短いうめき声をあげて後じさった。
新たに感じる血の味は苦く、吐き出したかったが、もう力を出せなかった。視界もぼやけ始める。
「ち、違う。俺たちは敵じゃない。落ち着け、結城」
聴覚もまた消えつつあるらしく、男子生徒の声もおぼろにしか聞こえなかった。
「はっ、はっ、は、はっ……」
乱れる息。自分の命が尽きる、その瞬間が近付いてきている。
「最期の……力だったんだな」
美夜に噛まれた右手の人差し指を逆手で抑えながら、京子が静かに呟く。
言われた通りだった。美夜のすぐそばに死が立っていた。
視線を動かし、目の端に人形の美夜子の姿を留める。
み、美夜、子。美夜の、子。ごめん、美夜子。美夜は、もうすぐ死ぬ。守れなくて、ごめんね。
「横、向きたいのか?」
今度は男子生徒が首を持ち上げ、横を向かせてくれた。
ここでやっと、美夜はその男子生徒が野崎一也であることに気がついた。彼女に残ったわずかな正気の部分が、野崎一也と羽村京子の組み合わせの妙に、怪訝な表情を見せる。
野崎……くん? なんで、荒れてもいない普通の子が、羽村京子と一緒に?
と、力なく落ちかけていた美夜の瞳が、はっと見開かれた。もともと青白かった彼女の頬は、血の気が抜け、紙のようになっていたのだが、その頬にふっと赤みがさす。
あげる。美夜を、あげる。 ……あげる。美夜の力を、あげる。美夜の命を、あげる。だから。だから、ね、羽村を殺して。
「もう、長く、ないな」 野崎一也が、悲壮な声を出した。横に立つ京子も、軽く頷いたようだった。
美夜はすでに彼女だけの世界に浸っていたが、彼らはそのことに気がついていなかった。
「楽に……、してやろう」
続く、京子の声。「うぜぇんだよ、その髪」と言って美夜の髪を切った、その声。美夜の大切な髪を切った、その声。憎くて憎くてたまらない、その声。
「結城、聞こえる? あんたを撃ってもいいかい?」
美夜はゆっくりと頷いた。そして、間際の吐息が漏れる美夜の口元が、にっと歪む。
離してくれるみたい。
羽村が離してくれるみたい。ばっかね、わざわざ美夜の力を解放するだなんて。美夜と美夜子を一緒にするお手伝いをするだなんて。わざわざ、自分が死ぬために。美夜に、美夜子に呪い殺されるために。
……殺して。美夜子。美夜の代わりに、どうか、羽村京子を殺して。彼女、美夜の髪を切ったの。美夜の大切な物を壊したの。憎い、憎い。美夜、羽村が憎い。
だから。
だから、美夜が彼女の指先につけた小さな傷よりも、もっともっと大きな傷を彼女に負わせて。美夜が流させた血よりも、もっともっと沢山の血を流させて。美夜が与えた痛みよりも、もっともっと激しい痛みを与えて。
ねぇ、殺して。羽村を殺して。美夜の命をあげるから……。殺して、殺して、殺して……。もっともっと、もっともっと……。
美夜は、死への恐怖と個人的な恨みから、楠悠一郎の死を、重原早苗の死を、羽村京子の死を、人形に願った。
彼ら彼女らに呪いをかけた。
結果、羽村京子を除く二人はすでに死亡している。
もちろん、最後の一人まで徐々に命が欠けていくプログラム、それは必然のことであり、それぞれを殺した生徒が別にいた。
ただの人形に人を呪い殺す力などあるわけもなかった。
しかし、美夜にとっての真実は違う場所にあった。
羽村京子の影が動き、心臓のあたりに何か冷たいものがあてられる。
最後の感覚を噛みしめる美夜が見つめるは、ただ一点。美夜子人形の瞳の部分にはめ込まれた黒い石の一点だけだった。
美夜と美夜子の二対の瞳が見つめ合う。
やがて、野草が生え放題の空き地に劈く(つんざく)銃声が響き渡り、美夜の身体に銃弾が撃ち込まれた。
主を失った美夜の瞳が焦点を失い、拡散していく。それにあわせるかのように、ひゅっと風が舞った。
<野崎一也>
主人公
「羽村、指、大丈夫か?」
結城美夜の亡き骸を整えている羽村京子に、一也は声をかけた。
これに京子は答えず、「閉じない……」と返してきた。
振り返る京子。その表情は怪訝だ。見ると、美夜の口元はきれいに拭われ、両手も胸元で合わせられていたが、首は横を向いたままで目も見開いたままだった。
死後硬直ってこんなに早く起こるものなのかな、と疑問に思ったが、とりあえず置いておき、「結城、その人形を大事にしてたみたいだな。そのまま見つめさせてやろうよ」と一也は言った。
美夜が死ぬ直前まで人形をじっと見つめていたことを思い出したのだ。
黒地のシンプルな柄の着物姿の和人形で、ちょうど抱きかかえるぐらいの大きさだ。
藤谷龍二にやられたのだろうか、肩口のあたりに被弾しており、痛々しい。
眉のうえで切りそろえられた前髪といい、黒石のはめ込まれた瞳といい、透けるような白い肌の色といい、どこか生前の美夜を思い浮かべさせる容貌で、正直な所、薄気味悪い。
集落を南下しているときに、この空き地の前を通り、倒れている藤谷龍二と結城美夜を見つけた。
二人の間に何があったかはすぐにわかった。
龍二は上半身がTシャツで下半身は露出しており、美夜は全裸だった。おそらくは、龍二が美夜の身体を狙ったのだろう。
災害時にはこういったレイプ事件が発生することがよくあると聞く。他にも同じような被害にあった女の子がいたのだろうかと、一也は陰鬱な気持ちになった。
ただ、美夜は抵抗し、勝利を収めたらしい。
龍二の喉下は切り裂かれ、血にまみれていた。
何か刃物で切りつけたのかな。その刃物は自分たちよりも前にこの広場に来た別の誰かが持ち去ったのか。それにしちゃ、藤谷の銃が残っているけど……。
地面に落ちていたグロック19を持ち上げ、一也は眉を寄せた。
(一也は、美夜が龍二の喉を噛み切ったとは予想も出来ないでおり、彼女の口元の血は吐血だと思っていた)
京子が美夜の上着を手に取り、彼女の身体にかけてやっている。一也も、脱ぎ散らかされた龍二の上着を彼の遺体にかけた。
ふと、彼女に止めをさしたのは正しいことだったのかな、と思い、青ざめる。
たしかに結城は瀕死だった。羽村が撃つまでもなく、彼女はそのうち死んでいただろう。
だけど……。
首を振り、「結城は羽村の問いに頷いた。彼女も望んだことだったんだ」と、自分に言い聞かした。誤魔化した、といってもいいのかも知れない。
と、唐突に「アタシ、この子のこと、嫌いだった」京子が静かに言った。
「虐めてた」
続く京子の言葉に、一也は何も返せない。
「だってさ、何してもこの子、逆らわないんだ。ただ、じっと薄気味悪く見てくるだけでさ。何も言わない。文字通り、見てるだけ。睨みつけもしない。それが、なんか、余計にむかついてさ、もっとひどく虐めてた」
ここで、京子は立ち上がり、すっと息を呑んだ。
「でも、この子、死に際に抵抗したんだ。藤谷のバカを倒したんだ。正々堂々、戦ったんだ……。アタシ、バカだからよく分からないんだけどさ、この子のこと、見直したよ」
同じく立ち上がりながら、一也は、隠れていた民家を出たときに、似たような言葉をかけられたことを思い出した。
「そう言えば、さっき、俺のことを見直したとか言ってたけど……」
「ああ、あれ?」
京子が軽く笑う。その笑顔は、ごく普通の女の子に見えた。それは、小学校時代、まだ親しくしていた頃に、京子がまだ荒れる前の頃に、よくみかけた笑顔だった。
「アタシだって、怖かったんだ」
京子はそれだけを言い、そっぽを向いた。
アタシだって怖かった。それは、あの家を出たことを指しているのだろうか。
そう思った一也は、遅れて驚いた顔をした。
合流してからの彼女の言動とは、全くそぐわない言葉だったからだ。「アタシも用があってね。途中まで一緒に行こう」これも、民家を出たときに聞いた言葉だ。
京子も何か事情があって、外に出る必要があった。だけど、彼女も、怖かった。安全な屋内にいったん腰を落ち着けてしまい、ぬるま湯に浸かった後、勇気がしぼんだ後、外に出るのは怖かった。
そんな中、外に出た一也を見直してくれたのだろう。
羽村、普通の神経も一応持ってたんだなぁ。
いささか失礼なことを思いながら、そっと微笑む。
同時に、胸の中に熱いものが渦巻いた。
なんだか、自分が認められらような気がして嬉しかった。成長できたような気がして、嬉しかった。
そんな一也に気がついているのかいないのか、「さ、食料その他いただこうか」京子が死んだ二人の荷物を探り出す。美夜の死を悼んだ彼女、さきほどの「アタシだって怖かった」と言った彼女と、同じ人間とはとても思えない行動だったが、このドライさが京子の本質なのだろう。
しかし、それだけではない。
荷物をまとめ、立ち去る一也らをじっと見つめる二つの目があった。
は、む、ら……。
視線を感じるとともに誰かに呼ばれたような気がして、京子は振り返り、首を傾げた。空き地に横たわる、藤谷龍二と結城美夜の死体。そして彼女が大事にしていたらしい、和人形。
そこには何も不審な物はなかった。
「アタシも疲れているな」
軽く頭を振り、踵を返す。
人形は、京子の背中をいつまでも見つめていた。
彼女がもう一度振り返れば、光線の加減か、その人形の口元がにぃっとゆがみ、笑ったように見えただろう。
<結城美夜、死亡。残り09人/32人>
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結城美夜
狂気に駆られている。藤谷龍二に襲われたが、喉を噛みきった。
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