OBR1 −変化− 元版


008  2011年10月01日05時すぎ


<野崎一也> 


 いつからか伸びてきた厚い雲が月を隠し、角島は深い闇に包まれている。
 野崎一也は、西の浜を慎重な足取りで進んでいた。
 薄茶色のブレザー姿、浜風に撫でられさらりと揺れた長めの前髪。その前髪の下の、切れ上がり気味の細い瞳。いつもは皮肉めいた笑みを浮かべている口元には恐怖が見えた。

 このあたりは、エリアとしてはHの3になる。
 南には、港がある少し大きな集落が見え、北には、暗い緑に覆われた山が見えた。
 海がすぐそこにあるので、磯の香りが強くする。
 そして、海へ逃げ出そうとする生徒を威嚇したり射殺するためだろうか、監視船が沖合いに見えた。
 他の船影はまるで見えなかった。この角島(つのじま)が瀬戸内海のどの辺りにあるか知らないが、船行ラッシュエリアの異名を取る瀬戸内で監視船以外の船舶が見えないのは、いかにもおかしかった。
 航行制限でも引かれているのだろう。
 先ほど港によったのだが、あるべき船が一艘(いっそう)も見当たらなかったなかった。生徒の脱走を防ぐために、どこか他の島へ移されたに違いない。
 その後、もしかしたら浜の船は撤去され忘れているのかもしれないと思い、島の西側に位置するこの浜へとやってきたのだが、政府に手落ちはなかった。

 誰かに物陰から狙われているのではないかと思うと怖くて怖くて堪らなかった。
 幸か不幸か、一也の手元には充分な「戦力」がある。スミス&ウエスン社のコンバット・マグナム。装弾数は、357マグナム弾6発で、全長205ミリ、重量0.9キロというシロモノだ。
 拳銃が入っていたケースに同封されていた説明書(鬼塚の印が押してある手書きの説明書だった)によると、この銃は反動が強く素人には扱いが難しく、また、装弾数も他の銃に比べて少ないらしい。説明に従い、安全装置は既に外してある。


 突然、銃声が何度も辺りに響き、びくりと肩を上がる。慌てて岩陰に身を隠し、銃を構えたが、音源は少し遠い位置のようだった。
 方角的には、先ほど通った港のあたりか。
 銃声を聞いたのはこれが初めてだった。
 ああ、始まったんだな、とため息をつく。
 覚悟はしていたが、実際にその証拠にあたることになった絶望感は予想以上だった。

 結局、誰とも合流できなかった。
 自順になり校舎の外に出た一也を待っていたのは、誰もいない校庭だった。恐怖に駆られ、とりあえず南の集落を目指したのだが……。
 ざざざと打ち寄せる波音にさえ恐怖を感じる。
 怖くて怖くて堪らなかった。
 俺って、こんなに臆病だったんだ。
 知らなかった事実に打ちのめされる。
 遊園地のお化け屋敷や落ち物アトラクションの類には強いし、ホラームービーにも強い。どちらかといえば、肝は据わっている方だと思っていたのだが、間違いだったらしい。
 それとも、みんな同じように震えているのだろうか?

 と、「野崎?」と誰かに声をかけられ、「ひゃっ」と短く切った声を上げた。
 見やると、そこには制服姿の和田みどりがいた。女の子にしてはがっしりとした体格、太い眉ときりりと引き締まった口元がどこか凛々しい印象を与える。長く艶のある黒髪を首筋の辺りで一本にまとめていた。
 みどりは、ほっとした顔を見せた。
 高志がみどりと仲のいい尾田美智子に熱を上げていたこともあって、黒木優子を加えた彼女たち三人とは、それなりに親しくしていた。
 自分なら大丈夫だろうと判断してくれたに違いない。
 しかし、前髪を下ろしていないのでよく見えるみどりの額につっと汗が流れる。姉御肌で、クラスの面倒をよく見ていた彼女もやはり恐ろしいのだ。
 怖いのは、俺だけじゃない。そう思うと少しだけ気が落ち着いた。
 銃を握り締めたまま、「一人?」と訊くと、みどりは無言で頷いて返した。
「そっちは?」
「俺も一人」
「そか」
「生谷は、一緒じゃない?」
 唐突な質問に、「高志? うん、合流できなかった」と答え、どきりと脈を上げた。
 高志ともう二度と会えないような気がしたのだ。ダメだ。そんなことを考えちゃダメだ。と、心の中で頭(かぶり)を振る。

 緩んでいたみどりの表情が固まった。
「伝えといて」
「え?」
「もし、生谷と、合流できたら、伝えといて」
 夜が明けようととしていた。白々とした朝陽が浜を照らす。心なしか潮の匂と波の音が、強まったような気がした。遠くに本土が見える。
「和田……?」
「私、生谷のこと、ちょっと好きだった」
「えっ?」
「ちっちゃいけど、元気で、熱くて、なんか、生きてるって感じがして、好きだった」
「和田……」
 先ほどよりも低い声で、彼女の名前を呼ぶ。

 高志は、彼女と仲のいい尾田美智子のことが好きだった。何事もオープンな高志のこと、誰でも分かるぐらいあからさまに美智子にアタックしていた。
 美智子といつも一緒にいたみどりは、その様子を身近で見ていたはずだ。
「そんな顔しないでよ」
 くすくすとみどりは笑う。
「そんな顔しないでよ」もう一度言い、「そんな顔されたら、もっと情けなくなっちゃう」視線を足元に落とした。
 みどりが、ゆっくりと歩き出した。波打ち際に立ち、足元が波にさらわれるままにしている。

「あ、あのさ、俺さ」
 痞えながら(つかえながら)、言葉を押し出すが、続きが出なかった。
 啓太を好いていることを言おうか、惑ったのだ。同性愛者の自分もずっと情けない思いをしてきたと告白しようかと思ったのだ。
 彼女は辛い恋をしていた。そんな自分を情けないと思っていた。
 君だけじゃない。自分もずっと情けない思いをしてきたんだ。君は一人じゃないんだと言いたかった。だけど、言えなかった。
 こんなときなのに、彼女が何をするつもりなのか予期できているのに、カミングアウトの重圧に一也は負けた。
 彼女に蔑まれたら、と思ってしまった。
「ねね、これ見て」
 そう言って彼女が差し出したのは、緑色の封筒だった。
「レターセット。これが私の支給武器。……伝えておけばよかったのかな。直接言うのは恥ずかしいけど、手紙なら……」
 はにかみながらみどりは言う。
「今からでも」
 そうだ、今からでも遅くない。
 俺は、啓太に伝えた。だから、君も。
 しかし、一也の言葉に、みどりは小さく首を振った。
「私、行くね」
 海の先を見ていたみどりがぴんと背筋を伸ばす。凛々しい、誰よりも凛々しい彼女の横顔。
 ゆっくりと、みどりが朝焼けの海の中へと入っていく。
 
 修学旅行先に向うバスの中、みどりは最後部座席に座ろうとした安東和雄に「そこ、楠らが座るつもりだよ。後で面倒なことになるからやめときな」と言っていた。
 分校で目を覚ましてからは、黒木優子や尾田美智子を元気つけていた。
 しっかり者で、誰からも頼られたみどり。
 彼女の死を、一也は呆然と見届けた。
 

 
<和田みどり死亡、残り30人/32人>

□□  バトル×2 1TOP ご意見ご感想 更新お知らせ登録