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077
2011年10月02日07時 |
<安東和雄>
しばらくの間、安東和雄は井戸の横で激しく息を乱していた。
どきどきと胸がなった。目を瞑り、深呼吸をする。
傍らに、西沢士郎のディパックと小刀が落ちていたので、座ったまま、ほとんど無意識に井戸に投げ込む。
どうしよう、どうしよう。
焦燥とともに、これからの行動を考える。
とりあえず、脇に立てかけておいた木の蓋をとり、井戸に蓋をした。井戸の中は極力見ないようにした。掻き分ける水音はしなくなっている。溺死したと見て間違いはないのだが、なんだか恐ろしかった。
あたりを見渡す。
砂利敷きの地面が乱れていたので、足で踏みならした。
士郎までに、生谷高志や佐藤君枝、筒井まゆみを殺していたが、ここまでの動揺はなかったし、恐怖は感じなかった。
麻痺していた感情にスイッチが入ってしまったのだろうか。と考えたが、「いや」と頭を振り、すぐに答えを見つけた。
……違うからだ。
今までとは違うからだ。
生谷高志らを殺したのは、プログラムだからだった。生き残りたいからだった。
だけど、西沢は違う。オレは西沢を……。
士郎との合流は、彼が察した通り、啓太の主導によるもので、和雄の好むところではなかったが、井戸の水を飲ませようとしたことに他意などなかった。
単純に、彼の喉の渇きを癒してやろうと思っただけだった。
殺すつもりなら、もっと確実な方法を選んでいた。
では、どうして士郎を突き落としたのか。
それは、士郎に憤り、憎んだからだった。
士郎がこぼした「金なんて要らないから」と言う台詞。あの台詞に和雄は憤ったのだ。
金には幼い頃から苦労させられた。今、感情をすり切らせながら「奪う側」に回っているのも、生活保証金のためだ。弟との平和な生活のためだ。
その和雄の前で、士郎は「金など要らない」と言った。
瞬間的なものだったとは言え、すでに通り過ぎて行った感情だとは言え、その台詞に、和雄は激昂した。
落ち着いてみれば、彼の心情は痛いほどに分かる。
心の支えを抜き取るような危険な考えだが、本当のところを言えば、金なんて要らないのだ。ただ、日常に返してもらえればそれでいいのだ。
金なんて、生きていればどうとでもなる。
その気になれば、時間はかかるだろうが、弟を官営孤児院から助け出すこともできるだろう。
もちろん、普段の生活で同じ台詞があったとしても、彼を殺しなどはしない。
何かしら負の感情は抱くだろうが、だからといって殺したりはしない。
彼を殺したのは、プログラムだからだ。プログラムで追い詰められて、心に余裕がなかったからだ。結局は殺しあうんだから、と言う思いもあったはずだ。
……だけど、だけど。
和雄は口を押さえて嗚咽を漏らした。
生谷高志らは、プログラムだから仕方なく、殺した。憎しみなんてなかった。だけど、西沢は違う。あの瞬間、オレは憎悪した。感情に身を任せ、西沢を殺したんだ……。
その違いは、和雄の中では果てしなく大きなものだった。
「ああ……」
弱る心を叱咤し、潜んでいた廃屋に目をやった。
腐りかけたしっくいの壁、草の生えた瓦ぶきの屋根。
矢田は今の物音に気がついただろうか?
可能性は五分五分だった。水音は立ったが、井戸の中のことだ。崩れかけの家とはいえ、啓太は屋内におり、疲れ果てて眠っていた。
また音を聞いていたとしても、そこから即西沢士郎殺しに繋がるとは思えなかった。
特に彼は、生来の平和主義な性格から、危険に目をそむけようとするきらいがある。
思惑を巡らせながら、裏口から建物の中に入る。見張り用に啓太から預かっていた銃のグリップを握り締めた。
埃の積もった木床をぎいぎいと鳴らしながら、進む。
果たして、啓太は、元いた部屋で眠りこけていた。和雄らが出て行ったときと体勢も変わっていない。
西沢は、出て行った。
大丈夫だろうか。誤魔化せられるだろうか。
そう考えた和雄は、遅れて、愕然とした。
誤魔化してどうなると言うのだ。どうせ、いずれは矢田も殺さなくてはいけないのに……。
だらだらと冷や汗が流れた。喉が渇く。頭を軽く振り、ベレッタM92Fを啓太に向けた。
と、筒井まゆみに襲われたときに、啓太に救われたことを思い出してしまった。大塚恵の、誰かの大切な人になっていたと気がつかせてくれたことを思い出してしまった。
駄目だ。
今度は頭を強く振り、迷いを振り切る。
啓太は、上着を西沢士郎に貸したままだったので、白いカッターシャツ姿だった。短い髪に、細い瞳。つるりとした頬は少しこけていて、穏やかな寝顔に疲労を乗せている。
構えた銃の引き金にゆっくりと力を込める。
殺さなきゃ……。
……矢田が寝ているうちに、殺さなきゃ。今なら、苦しめずに殺せる。西沢士郎らに与えてしまったような死の恐怖を感じさせることなく、殺すことができる。
殺すなら、今だ。
早く、早く……。
しかし、ここで、啓太が「うん……」と寝返りを打った。
どきりと脈をあげる。慌てて、銃を後ろ手に隠していると、啓太
が目を開けた。
やはり、眠っていたらしく、寝ぼけ眼だ。
あたりを見渡す。やがて、西沢士郎がいないことに気がついたのだろう、起き上がり、「あれっ?」と声を上げた。
「西沢?」
訊くと、
「うん」
うなづく。
「出てった」
「えっ」
埃をはらっていた手が止まる。
「一人でいたいってさ。……矢田にお礼を言ってた。伝えてくれって」
ともすれば多弁になりそうになるので、押さえ込む。
何を言っても嘘なのだ。言えば言うほどぼろが出るに違いない。
「そ、か……」
啓太は一応の納得をしたようだった。
やや考え込んでから、はっとしたような表情を浮かべ、顔を上げる。
「ここ、動いたほうがいいよね?」
彼の言葉に驚き、「えっ」今度は和雄が反問する。
井戸の周りはならしておいたとは言え、不安はあった。できれば早いうちに移動を提案しようとは思っていたのだが、まさか啓太が言ってくるとは思っていなかったのだ。
「後々西沢がやる気になったら……」
彼らしならぬ台詞が続く。
矢田の中でも心境の変化があるのだろうか?
そう思いながら、「ああ、そうだな。ここにいたら危険だ。移動しよう」和雄はうなづいた。
荷物をまとめている啓太の背中を見つめながら、和雄はそっと息をついた。
額ににじんだ汗をぬぐう。
本当に、彼は気がついていないのだろうか。本当に、西沢が自分から出て行ったと思っているのだろうか。本当に、この場で殺さなくていいんだろうか。
後ろ手にまわした銃のグリップにひそかに力を込める。
しかし、啓太の背に向けることはできなかった。
<残り11人/32人>
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安東和雄
孤児院育ち。生谷高志らを殺害。優勝者報酬の生涯補償金を得、弟と一緒に暮らしたい。
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