OBR1 −変化− 元版


073  2011年10月02日06時


<永井安奈>


 時間としては、一也らが悲鳴を聞いたその10分ほど前。

 Dの4付近、北の集落の住宅街を、永井安奈は朝日を全身に受けながら歩いていた。
 夜露に濡れた木塀が陽光を浴び、湿った木の香りを漂わす。
 電線にとまった雀が、チチチと鳴く。
 思わず呆けてしまうようなのどかな風景だったが、安奈の額には緊張感から来る汗が光っていた。
 いつどこから銃弾がとんでくるか、分からない。
 いつどこから刃物をもった者が現れるか、分からない。
 教会に立て篭もったほかの誰よりも落ち着いていた安奈だが、屋外で感じる恐怖は屋内のそれをはるか上まわっており、さすがの彼女も、精神力を削がれ始めていた。

 永井安奈。
 後ろ髪を自然に肩におろし、前髪を左から右に流しピンでとめた髪型。
 卵型のつるんとした顔には、はっきりとした二重の瞳と、やや厚い唇がのっている。
 目立つほどの美人ではないが、決して十人並みではない。事実、化粧をすればそれなりに「化けられる」容貌だった。
 その生活は、基本的に「闇」に属する。
 金がなくなれば盗むし、誰かから金を巻き上げたりもする。売春組織にも関っていた。
 しかし、そうする一方で、慎重だった。対面を気にした。自分の身体を大事にした。身体を壊すようなこと、たとえばクスリなんてものには足のつめ先ほども向けないし、タバコもほとんど吸わない。
 金を盗むときは、慎重に慎重を期す。
 ピッキング等の技術も磨いているし、一般家庭のへそくりから数枚札を抜く程度。
 金を盗まれたことに気がついていない家も多いだろうし、たとえ気がついたとしても、小額だと「これぐらいなら……」と表ざたにもなりにくい。
 また、金を巻き上げるときは、顔の割れている相手、同じ学校の生徒を決して狙わなかった。
 売春も、自分はあまり身体を売らず、専ら「紹介」に徹した。

「評判を気にするなら、悪い事しなきゃ、いいのに」「面倒くさいことやってるねぇ」
 何事もシンプルを旨とする筒井まゆみ(安東和雄が殺害)が、呆れ顔でよく言っていたが、これに安奈は「それが、アタシだよ」と笑って返したものだ。
 悪いことをするのは、楽しい。金はたくさん欲しいけど、汗水流して働くのは嫌だ。
 それが、アタシ。
 周りから変な目で見られるのは嫌だ。大きな悪事は肌にあわない。
 これも、アタシ。
 アタシはアタシの身の丈にあったことをやってるだけ、思うままに生きてるだけよ、と。

 この安奈の哲学には、彼女の父親の存在が関係してくる。
 安奈の父親は、京都の繁華街で骨董品屋を営んでいた。
 子は親の鏡、親は子の鏡とでもいうべきか、まがい物を口八方で素人に売りつける、お世辞にも良心的とはいえない店主だった。その他、細々と小さな悪事を繰り返していたのだが、大きな山に手を出しことで足がつき、逮捕された。
 そして、未だに檻の中だ。
 父親が捕まったことを、安奈はこう思っている。
「あのタヌキ、自分の分(ぶ)を見失ったんだな」
 アイツは、もともとは自分が「小悪党」「食えないけど、ただのタヌキ親父」であることをわきまえていたはずだった。
 だけど、何かのタイミングで自分を大きく見てしまったんだ。で、失敗した。
 ……アタシは失敗しないね。
 アタシはアタシが小悪党でしかないことを、よぉっく知っている。自分の分をわきまえている。
 父親の事件を反面教師にし、安奈はもとからの性質を色濃くしていた。

 母親。いまは、母親の実家に身を寄せているのだが、母親には離婚する気はないらしい。
 いや、「今度こそ」と離婚届を持って父親に面会に行くのだが、そのたびに思い直しているようだ。おそらく、父親にのらりくらりをかわされているのだろう。
 父親は口がうまく、自分の思うとおりに人をコントロールすることがうまかった。
 母親も連れ添って何年もたつのだから、その辺りのことはよくわかっているだろうに、やっぱりコントロールされて帰ってくる。安奈は、この人の良い母親、娘のことを「いい子ちゃん」だと思っている母親のことを馬鹿にしていた。
「世の中には騙す人間と騙される人間がいて、騙される人間は搾取されるだけなのだ」安奈の哲学書にはそう書いてある。

 だけど、その血を受け継いだとはっきり思える父親のことは好きだった。
 出所してきたら二人で暮らしてもいいなと、思っていた。
 タヌキおやじと女狐の組み合わせ、悪くないんじゃない? なんてことを思っていた。
 まぁ、プログラムに巻き込まれた今となってはどうでもいいことだと、今の安奈は思っていたが。


 安奈は、慎重な足取りで住宅街を歩いていた。数百メートル先にある浜を越えてくる潮風が、彼女の髪をなびかせる。
 やだな、髪が痛んじゃう。ふっと思った後、さきほどの放送を思い返した。
 新たに加わった死亡者リストの中に、吾川正子を殺した後に教会を飛び出した飯島エリの名前があった。
 彼女、死んだんだ。
 吾川、正子。越智、柚香。飯島……エリ。みんな、死んだ。みんな、私が手にかけることなく、死んだ。
 安奈の口元に、にっと笑みが浮かぶ。

 永井安奈の支給武器はジグ・ザウエルだった。
 銃を支給武器に得た彼女には、既に死んだ不良グループの楠悠一郎のように、積極的に殺して回ることは可能だった。
 安奈は、楠のような秀でた身体能力を持っていないので、同じ条件で比べることはできないが、やろうと思えばできたはずだった。
 しかし、安奈はその選択をとらなかった。
 それは、倫理的にどうというよりも、「優勝した後の生活」を見据えての行動だ。
 優勝したはいいけど、罪悪感にやられて精神を駄目にするんじゃ、意味無いわ。
 安奈は、そう思う。
 優勝者の社会復帰が遅れるケースが多々あると聞く。また、病棟から一生出れないケース、自殺してしまうケースもあると聞く。
 それは、当たり前のことだと彼女は思う。
 好んで人を殺せるヤツなんて、ごく一部だ。みんなみんな、普通の神経しか持ち合わせていない。
 ……アタシ? アタシだって、普通の神経しか持ってないよ。
 いくらプログラムだからって、人なんか殺したら、絶対悔やむ。もしかしたら、狂っちゃうかもしれない。
 なんとか、優勝する。でも、罪悪感にやられちゃう。自殺する勇気が持てればいいけど、持てなきゃ、ずっと、そのままで生きてなきゃいけない。
 そんなの、死んだのと一緒だ。……それなら、いっそここで死んだ方がマシ。

 だから、安奈は自分の手を汚さない。
 もちろん、必要とあれば、やる。
 しかし、それは自分に言い訳のきくときだけにしようと、安奈は思っていた。
 向こうから襲ってくる。反撃する。殺す。それは、正当防衛だ。陪審員は、みんな納得するだろう。アタシだって、納得する。でも、自分から攻めちゃぁ、いけない。陪審員は顔をしかめるだろうし、アタシだってしかめる。
 越智柚香を冷静に殺して見せた黒木優子。
 彼女だって、普通の神経しかもっていないはずだ。今は、あんなでいられているのかもしれないけど、彼女、優勝したら、潰れるね。
 普通の生活なんて、ぜったい無理だ。
 ……アタシは潰れない。
 優勝したはいいけど、殺したクラスメイトの影に脅える人生なんて、ほんと後免。いならいわ、そんな人生。

 生き残りのクラスメイトの中では、安東和雄と黒木優子が積極的にゲームに乗っていた。
 安東和雄は、優勝者に渡される生涯の保障を得、今は政府管轄の孤児院にいる弟を引き取り、二人でひっそりと生きていきたいと思っている。
 黒木優子は、これまでと同じ普通の生活を望んでいる。
 二人とも決して身体能力に恵まれた生徒ではなかったが、それでも必死に戦い、ここまでを生き延びてきた。
 結果、それぞれ数人のクラスメイトを手にかけている。

 比べて、彼女は一人のクラスメイトも殺さずに生き残っていた。
 彼女に絶望感を煽られなければ、吾川正子はその死を受け入れなかったかもしれない。
 彼女に殺意をくすぐられなければ、飯島エリは吾川正子を殺さなかったかもしれない。そうすれば、教会を飛び出すことはなく、津 山都を巻き込んで死ぬこともなかった。越智柚香は気絶することなく、殺されなかったのかもしれない。
 安奈はすでに四人のクラスメイトの死亡に関与してきたが、その誰をも直接には殺害していなかった。
 ここまでは、まさに思い通り。彼女の戦略通りに、ことは進んでいる。そう、ここまでは。



 変らぬ慎重な足取りで角を曲がる。と、それまでは彼女の背中を押すようにふいていた風の向きが変った。今度は前面、彼女の顔をなでるようにふいてくる。
 強まる潮の香り。そして……。
 な……に?
 彼女の歩みがいったん止まった。眉をぎゅっと寄せ、鼻先をくんっと鳴らす。
 潮の香りとともに、「何か」が匂った。

 ふらり、止まっていた安奈の歩みが復活する。
 いけない……。
 この時点ではその先に何があるのか分かっていなかったが、賢しい(さかしい)彼女の理性は、警告音を発した。その場には行くべきではないと判断した。
 しかし、どうしても歩みを止めることが出来なかった。
 ふらり、ふらりと、何かに操られたかのようなおぼつかない足取り。
 もう一つ角を曲がると、そこには背の低い植え込みで囲まれた児童公園があった。
 公園と言っても、過疎気味の島のこと、ただ整地しただけ、申し訳程度にベンチや遊具が置かれているだけの、広場と表現しても 差し支えのないようなささやかなものだった。
 そして、その中ほどに……、「それら」があった。

 ごくり、震える喉に唾液を落としす。
 いけない、いけない。
 再び発せられる危険信号。しかし、またしても安奈の身体は理性に従わなかった。
 すうっと息を呑む。同時に吸い寄せられる視線。
「あ……」
 顎先をあげ、一度、ぎゅっと目を瞑った。
 このまま目を瞑っていたい。そう思ったが、三度(みたび)、彼女の身体は理性に逆らった。
 食い入るように、食い入るように、彼女の両眼は「それら」を凝視する。
 張り付いてしまった視線を外そうとしても、その先にある物からどうしても目を離せなかった。

 ここで、まるで瘧(おこり)を起こしたかのように彼女の身体が震え始めた。両手でぎゅっと自身の身体を抱いて震えをとめようとするが、うまくいかない。
 すでに安奈の身体は、「それら」が何であるか理解していた。残るは、彼女の理性だけだった。
 そしてついに、眼球に映るそれらが何であるか、彼女の理性が理解した。
 地獄。
 ありふれた表現だったが、彼女が思ったのはそんなフレーズだった。

 小規模な爆発があったらしい。巻き込まれたのは……数人か。
 まず視界に入ってくるのは、爆破で薄く抉られた地面。
 乾燥しているのか、もともとそういう土色なのか、とにかく白っぽい色をしている広場の地面に、半径2メートルほどの黒い円が出来ていた。
 そして、その周囲に散らばる肉片。腕、手足、衣服の残骸。
 爆破の円の近くに、胴体部分がニ遺体分あり、開いた腹から内蔵がこぼれ、肋骨や骨盤、白い骨が見えていた。
 また、少し離れた所に、横倒しになった男子生徒の遺体があった。
 爆破当時から離れていたのか、比較的損傷が軽いが、それでもやはり、頭部が半壊し脳漿が漏れ、片腕と両脚が中途半端にもがれたようにになっていた。

「う……わ……」
 後じさりしたい欲求とは裏腹に、また一歩進む。
 高まる恐怖の中、彼女の記憶が刺激された。
 あれだ。昨日の昼前に聞こえた爆音だ(結城美夜や野崎一也の独白にも登場)。教会の建物が震えたほどだったから、近いとは思っていたけど、まさかこんなに近かったなんて……。
 進むとともに急激に強まる、肉が焼けた匂い、髪が焼けた匂い、血の匂い、内臓物の匂い、そして……腐敗臭。
 今朝は涼しいが、昨日は丸一日汗ばむような陽気だった。
 すでに腐敗が進んでいるのだろう、ブンブンと嫌な羽音を鳴らす蝿がたかり始めていた。

 ぽとり、首筋に何か水滴のようなものが落ちてきて、安奈は文字通り飛び上がり、声にならない悲鳴を上げた。
 見上げると、緑地帯から枝葉を伸ばした樹木、その枝木に女の首が引っ掛かっていた。
 胴体から離れた首。爆破の衝撃で醜くゆがみ、焼け焦げ、それが誰なのかまったく識別できない。髪の長さから女だと判断できるのみだった。
 両眼はなく、赤黒い眼窩が安奈を睨みつける。
 落ちたのはただの朝露だったが、安奈はその女の血だと思った。
「ひっ」
 短い悲鳴をまず上げる。
 そして。
 そして、「きゃあぁぁぁ……ああぁぁあああ……ああっ」波打つ悲鳴が、彼女の喉元からこぼれ始めた。そうしている間も、顎先を下げることが出来ず、女の首を凝視したまま。

 駄目だ。駄目だ。
 繰り返すNG信号。叫んでは駄目だ。危険な誰かを呼び寄せることになる。駄目だ、駄目だ。
「あぁぁぁ……ああぁぁあああ」
 しかし、どうしても漏れ落ちる声を止めることが出来ない。
 むしろ、そのボリュームは高まっていく。
 15歳にして他人をコントロールする術(すべ)を見につけていた彼女、その哲学に従い自制する術を身につけていた彼女。その安奈にしても、この惨状は耐え切れるものではなかった。

 いつしか座り込んでいた。ぼろぼろと涙がこぼれる。なおも閉じることの出来ない両眼を手の平で覆うが、彼女の視線は指先の間を縫う。
 と、その視界がふっと陰った。
 な……に?
 見上げる先には、黒木優子 がいた。



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バトル×2
永井安奈
優等生に見られていたが、陰で悪さをしていた。 飯島エリや吾川正子をひそかに操り、教会立てこもり組を崩壊させた。