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069
2011年10月02日05時 |
<越智柚香>
「そうね、私を中心に半径15メートル以内に、誰か生きてるコ、いる?」
全身の骨が折れたかと思うような痛み、かすむ思考の中、柚香は誰かの声を聞いていた。
「……分かった。生きてるコ、いるんだね」
誰……だろう。
くっついて離れようとしないまぶたを苦労してこじあけると、ぼんやりとした視界に、つい先ほど飯島エリと一緒に転落した階段の上り口が見えた。
遅れて、転落の衝撃で視界がかすんでいるのではなく、物理的にかすんでいることに気が付く。
つけていたコンタクトレンズがどこかに吹き飛んでしまっていた。
柚香の視力は極めて悪い。裸眼だと、曇りガラスを通したようにしか周りを見ることが出来ないのだ。
そんな中、目を凝らしてあたりを見回そうと身体を動かしたら、さらに痛みが増した。
「ぐっ」あまりの痛みにうめき声も洩れる。
すると、頭上から「あ、気が付いた」誰かの声がした。
本当は気が付いてから4,5分は経っているのだが、しばらくは身体が動かせなかったため、その誰かはたった今気が付いたと思ったようだった。
「ユズ、大丈夫?」
抱き起こされる感覚。そこでやっと、柚香は相手が誰であるかに気がついた。
優子、だ。
そう、それは黒木優子
だった。
今はぼやけてしまってよく見えないが、柚香は優子の一重だけどくりくりとしたとび色の瞳や、ふわふわの赤茶けた長い髪、そばかすの目立つ頬を思い浮かべた。
「ひどい……誰にやられたの?」
「エ、リ。エリが混乱して暴れて……一緒に階段から……」
柚香が応えると、「ここに入る前に誰かが走っていく後姿を見たんだけど……やっぱり、あれ、飯島さんだったんだ」といい、さらに「上で吾川さんが死んでた」と続けた。
その優子の声につられたのか、柚香の視界に先ほど見たエリが吾川正子の首を締めているシーンがフラッシュバックする。
「ずっと、教会にいたの?」
優子に訊かれ、こくりと頷く。
「誰にも会わなかった?」
さらに頷く。
「……ふん、じゃ、何も知らないんだ」
ここで、柚香は戸惑った。
え……な、に?
柚香の戸惑い顔に気がついているのかいないのか、優子がゆったりとした口調で言う。
「あのさ、訊きたいんだけどさ、人生変っちゃうのってどんな気分?」
「え?」
「ほら、ユズって前の学校でいじめられてたんでしょ。でも、うちでは佐藤とか飯島とか津山さんとか……友達、いっぱい出来てる。どんな感じ? 人生が変ったのって?」
かすむ視界、優子が笑っているのが見えた。
学校で見ていた、いつも通りの笑顔。
と、その笑顔がふっと曇った。
「このさ、プログラムで優勝したらさ、どこか別の街に行かされるんだよね」
プログラムに優勝した生徒は表向きは地元の英雄として称えられるが、感情論からすれば、やはりその土地にはいずらい。優勝者の家族は政府の保障で他府県に転居させられ新たな生活を送るのだという話は、柚香も聞いたことがあった。
「それってさ、人生が変ったようなものだよね。ね、ユズ、あんた、人生変ってどうだった? どんな気分だった?」
思い出したくも無い、過去。
きっかけは、本当に些細なことだった。
今のクラスでは佐藤君枝が女子のリーダー格だが、前の学校でも同じような女子生徒がいた。
柚香はその女子生徒がある男子生徒に振られたのを見てしまったのだ。
そして運の悪いことに、その男子生徒は柚香と仲が良かった。
……仲がいいといっても、同じテニス部に所属していてクラスも一緒でということで、話す機会が多かったという程度のものだったのだが。
しかし、それでも面白くなかったのだろう。
次の日から、その女子生徒を中心とした柚香虐めが始まった。
言葉尻をあげつらう。
上履きや教科書を隠される。
ノートに落書きをされる。
陰口を叩かれ、面と向って嫌味を言われた。
何を言っても意地悪く解釈され、剥き出しの悪意を向けられた。暴力も受けた。
そして、辛かったのは、何よりも辛かったのは、それまで仲良くしていた女の子たちも柚香の周りから離れていったことだった。
その子たちも一緒になって柚香をいじめたことだった。
教師も見ぬ振りをし解決の兆しもなかったが、幸い柚香の父親に転勤の話が持ち上がり、転校。
柚香の父親は仕事柄、転勤が多い。
たまたま転勤が「あたった」のだ。
転校してきたこの学校では、柚香は佐藤君枝らのグループに入った。
もともとは明るく、友人の出来やすい柚香のこと、それは難しいことではなかった。
佐藤君枝は気のいらない生徒にはきつく当たるが、仲間内には優しく面倒見も良かった。
話題の豊富な飯島エリ、大人しいけど女の子らしい香川しのぶ、君枝と同じように頼りになる津山都。
君枝らと一緒にいる時間は、本当に楽しかった。
遊びに行ったり、おしゃべりしたり、大好きな矢田くんのことを話したり。
そう、君枝ちゃんたちと一緒にいるのはほんとに楽しかった。
……君枝ちゃんたちが尾田美智子を虐めてさえなければ。
君枝らの尾田美智子虐めは、柚香が経験したものよりは軽度なもので、せいぜい言葉尻をあげつらったり、嫌味をいう程度なものだったが、それでもやはり気持ちのいいものではなかった。
だから、「私は、やらない。やるなら私の見えないところでやって」といい、虐めには加わらなかった。
その理由として、前の学校で虐めを受けていたことも言った。
もちろん、自分に虐めの矢が向うことも懸念したが、仲間うちでは津山都も一歩引いたスタンスを取っていたので、少しは安心して(もちろんその結果が恐ろしかったが)自分の意見を通せた。
また、佐藤君枝の性格からして、いったん仲間と認めたものをその程度のことで切り捨てるとは思えなかったのもあった。
学校支給の白いベストの胸ポケットにつけられた小さなハートマーク。
刺繍したのは家庭科の得意な香川しのぶだったが、発案は佐藤君枝だった。
君枝は、「友情ごっこ」が好きだった。
そんな彼女が、いったん仲間と認めた自分を虐める可能性は低い。
そして、柚香の判断は正しかった。
柚香は思う。
嫉妬、そねみ、ねたみ。劣等感に優劣感。
世の中には石ころがたくさん落ちてる。その石ころには、真面目に生きてたっていい加減に生きてたって、誰もがつまづく危険性がある。
だから、気をつけて気を配って、つまづかないように生きていかなくちゃいけないんだ。
で、もしもつまづいてしまったら。
誰かに睨まれてしまったら。
何で私が、なんて悲劇のヒロインをきどってみたって仕方がない。だって、そんなことをしたってケガはひどくなるだけだから。
反抗したって仕方がない。だって、私には何の力もないから。
頭を抱えて嵐が通り過ぎるのを待つしかないんだ。
でも、私は石ころにはならない。誰かを虐めたりしない。誰かの言葉尻をあげつらったりしない。誰かを傷つけたりしない。
だって。
だって、そんなことしたら、また私、石ころにつまづいてしまうような気がするから。
もちろん、同じように石ころにつまづいてしまった尾田美智子のことは気がかりだった。
しかし、表立って助けてやろうとは思わなかった。
美智子にはそこまでの義理もなかったし、彼女にはちゃんと友達がいて(いま目の前にいる黒木優子らだ)守ってくれていたから。
柚香は思ったものだ。
自分ができるのは、君枝ちゃんたちがやりすぎないように、適当にいさめてあげるだけだけだ。
本来、虐めを受けた経験のある者は虐める側に回りやすいものだが、柚香はその選択をとらなかった。
状況が味方し、打算もあったが、それでも強い意志を持った。
それは一種、賭けと呼んでもいい行動だったが、柚香はその賭けに勝ったのだ。
そう、たしかに「人生が変った」と言われるにふさわしい柚香の過去だった。
*
「ね、ユズ、あんた、人生変ってどうだった? どんな気分だった?」
ハンドタオルにペットボトルの水を含ませながら、黒木優子が繰り返す。
「変ったって……」
優子、あんた何が言いたいの?
柚香が戸惑いを隠せないでいると、優子がハンドタオルで柚香の口元についた吐血のあとを拭ってくれた。そして、ぽつり、言った。
「私さ、優勝しても、そのままでいたいんだ。変りたくなんて、ない。特別になんてなりたくない。今まで通り。今まで通り、ふつーの生活をさ、送りたいんだ」
え、優勝しても?
階段から転落したショック、ここ数十分の混乱で、やはり思考が鈍っていたのだろう。
また、普段の教室内での黒木優子のふるまい、自分との関係から、優子は安全だと思ってしまっていた。
ついに、ここで初めて柚香は優子に警戒心を持った。……持ったけれど、遅かった。
「だからさ。私の普通の生活のためにさ、ユズ、死んでよ」
その言葉が終わらないうちに、顔を拭ってくれていたハンドタオルで口と鼻を押さえられる。
水をたっぷりと含ませているせいか、まったく息が出来なくなった。
もがこうとするが、転落の衝撃で腕の骨を折ったか肩を脱臼したかしたらしく、痛みだけが走った。
しまった! この子、も、石ころだった。
次第に閉じていく思考の中、柚香が思い浮かべたのは、君枝たちと過ごした日々だった。
<越智柚香、死亡。残り12人/32人>
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越智柚香
テニス部。佐藤理央らと親しくしていた。
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