OBR1 −変化− 元版


065  2011年10月02日05時


<吾川正子> 


 正子は二階へと上がり、寝室のドアを開けた。
 寝室は調度品がほとんどないシンプルなつくりの洋間で、寄り添うようにベッドが二つ置かれ、壁の一面にはクローゼットがはめ込まれている。
 ドアを開ける音で驚かしてしまったらしく、ベッドの上に座り膝を抱えていた飯島エリが、びくりと肩を上げた。
「ごめんなさい、上着、取りにきたの」
 そう言ったとたん、ふいの息苦しさが正子を襲った。
 ひゅーひゅーと喉元から空気が抜けるような音が洩れる。慌ててポケットから発作止めのエアゾール剤を取り出し、吸引する。
 喘息の発作。正子を支配する重度の喘息疾患は、もはや彼女とは切っても切れない関係となってしまっていた。
 もちろん、医療の進歩とともに有効な薬剤は増えていく。主治医は「適度な運動と規則ただしい生活が、一番のクスリなんだからね」と言う。

 そんなの、言われる前からやってる。ちゃんと決められた薬も飲んでる。
 だけど。だけど、治らないんだもの。いつまで経っても治らないんだもの。
 分かってる。自分よりももっともっと重度な疾患はいくらでもある。病気にかかっていても前向きに生きている人間なんていくらでもいる。私は、そうならなくてはいけない。
 だけど、だけどさ……。
 この病気のせいで学校は休みがちだし、友達は数えるほどしかいない。体育の授業なんて、まともに出たこともない。
 自分よりももっとひどい病気や境遇に悩まされてる人がいたって、それはその人たちの痛みだ。
 発作の苦しさ、希美に『友達になってもらう』情けなさ、体育祭や陸上大会で盛り上がるクラスメイトから取り残される寂しさは、私のものだ。
 私の、痛みだ。

「ああ、ほんと、生きてたっていいことなんか、ない」
 幼い頃から持ちつづけてきた自殺願望。
 プログラムに巻き込まれた今、正子の中でその願望が脹らんできていた。
 なんで、私、まだ死ねないんだろ。
 こんなに、私、死にたがってるのに。
 死んで、私は生まれ変わる。今度はきっと健康な人生だ。そしたら、健康な他のコたちを羨むこともなくなるし、みんなに引け目を感じずにすむ。


 突然、首元に何かがかかり、ぎりぎりぎりぎりと締め付けてきた。
「なっ」
 喉をしめつけるものを引き剥がそうと手をやり、それが誰かの指先であることに気がつく。振り返ろうとしたら、カーペットの上に押さえつけられてしまった。
 倒れた拍子に身体の向きが反転し、首を締めてくるその指先の持ち主と相対する。……正子に圧し掛かり首を締めているのは、長い髪を振り乱した飯島エリだった。
「うるさい、うるさい、うるさぁい!」
 うわずるエリの唇から、霧のような唾液が飛んでくる。
「や、め……」
 もがく正子。
 しかしエリは「静かにして! やる気になった誰かに見つかるじゃないっ」締める力を緩めない。先ほどの喘鳴が、恐怖心にかられ尖りに尖っていた飯島エリの神経を刺激してしまったのだ。

 身体を左右に捻りエリから逃れようとするが、うまくいかない。「私、自殺したいな」「やっぱり、私、死んじゃいたい」永井安奈の言葉が正子の脳裏を過ぎった。
 じ、さつ? そうだ、永井さんは死にたいと言ってた。
 もし、正子が後ろを振り返ることが出来たのなら。床に組み伏せられた体勢だったけれど、振り返ることが出来たのなら、彼女のその血走った瞳には『操り糸』が映ったに違いない。
 自分が誰に操られているのか、エリが誰に操られているのか。
 正子は見たに違いない。
 心の根っ子が叫ぶ、その声を聞く機会は何度もあった。
 スタート直後に越智柚香たちから声をかけられたとき、お風呂に入ろうとしたとき、風邪を引かないように上着を取りにいこうとしたとき、発作止めの薬を吸引したとき。
 そして何よりも野崎一也のことを考えたとき。
 そのときどきに、彼女の心の根っ子がシグナルを発した。

 どうして? あなたは死にたいんでしょ? 自殺したいんでしょ? 
 じゃ、必要ないじゃない。
 越智さんたちとグループを組む必要なんてないじゃない。身体を洗う必要なんてないじゃない。風邪なんか引いたって構わないじゃない。発作で死んだって同じことじゃない。
 なのにどうして? 
 どうしてあなたは死ぬことを先延ばしにするの?
 分かってるでしょ? 最初から分かってるでしょ? 
 プログラムに巻き込まれる前から、あなた、死にたがってた。だけど、死ななかった。
 今だって、そう。分かってるでしょ? あなたは生きたいんだ。死にたくなんてないんだ。聞こえるでしょ? 私の声が聞こえるでしょ? 

 ……だって、私はあなた自身なんだから。

 しかし、すでに正子の中で何かが弾けとんでいた。そして、その何かが、感情の坂を転がり落ちはじめる。はじめはゆったりと、次第に早く鋭く。
 あはっ。あは……あはははっ、永井、さんっ。
 私が先に死ぬわっ。あなた、きっと怖くなるでしょう。私の死体を見たら、怖くなるでしょう。だって……私、もしあなたに先に死なれたら、怖くなってたわ、死ねなかったわ。
 あなただって、きっと、そう。
 そうだ、もうあなたは自殺できない。でも、私は、ここで、死ねる。やっと、死ねるっ。
 苦しい。死ぬのって、こんなにも苦しいことなんだ。だけど、だけど、私、死ねる!

 あはっ、あははははっ、私、私、死ねっ、死ねる! 永井さん、私の勝ちよっ。

 本来の正子は、大人しく心優しい少女だった。だけど、今、彼女の思考は激しく乱れている。激しい情熱を持って死に向おうとしている。そんな正子とは裏腹に、彼女の身体は生きようとした。エリを払い除けようと、身体を左右に揺らす。四肢は、いっそ滑稽なほどにじたばたと抗う。
 首を締めるエリの手の甲を、正子の爪先がえぐった。
 あぶくのような唾液が唇から洩れた。
 心の根っ子が、叫び声をあげた。生きようとする心が、正子の胸の中で悲痛な叫び声をあげた。
 しかし、彼女はその声を認めようとはしなかった。
 耳をふさぎ心をふさぎ、その声を聞こうとはしなかった。

 そして、彼女は考えなかった。
 支給武器の『秋の味覚セット』。そのうちの一つに毒が仕込まれていることが、そのことを誰にも告げないことが、他の女の子たちにどんな影響を及ぼすのか。
 彼女は最期の最期まで考えなかった。

 ……彼女までに、16人のクラスメイトが命を落としていた。自殺した生徒もいた、誰かに殺された生徒もいた。
 誰もが己に降りかかった不幸を呪い死んでいった。あるいは、それと自覚できないまま、死んでいった。
 たとえそれが誰かの言葉に惑わされた結果、増長させられた結果だったにせよ、その中での正子は、稀有な存在だったのかもしれない。

 あはははっ、わた、し、死ねる!

 18人目の死亡者、吾川正子は自らを襲った死を歓迎し、この世を去った。




<飯島エリ> 体育会女子G


「ど、どうしたの?」
 階段を駆け上がる音とともにドアが開き、越智柚香が飛び込んできた。
 入浴中に物音を聞いて飛び出してきたらしく、柚香はスカートの上にカッターを羽織っただけの状態だった。濡れ髪からぽたぽたと水滴も落ちている。
 柚香の後ろには、永井安奈の姿も見えた。
 狭い部屋だ。ひと目で状況は把握できたのだろう。柚香が短い悲鳴をあげた。
「ち、違う!」
 切れ長の瞳から泪を流し、長い髪を振り乱しながらエリが叫ぶと、「何が違うんだ、この人殺しっ」それに応えるように安奈が叫ぶ。
 背後からの大きな声に驚かされたのか、柚香がびくりと肩を上げた。
 柚香の大きな見開いた目。恐れの表情。
 テニス部の活動などで一緒にいる機会が多かったが、それは、エリがはじめてみる柚香の表情だった。
「ち……、違う」
 エリは繰りかえす。

 違う、違う、そりゃ、私、いつかはみんなを殺してでも生き残りたいと思ってた。死ぬなんて嫌だ、いつかはやってやるって思ってた。
 だけど、今は、そんなの出来るはずがないって思ってた。
 ほんとに、せっぱ詰まるまでは、最後の最後までは、ぜったいぜったい無理だって思ってた。
 なのに、なのに、どうして? どうして、さっき、私は吾川を殺したの? どうして、私の手の甲には吾川の爪あとが残ってるの? 

 このとき、エリは見た。
 驚きの表情を隠し切れない柚香の後ろで、安奈が笑うのを。
 一瞬だった。笑う瞬間、安奈はうつむき加減になっていた。笑ったといっても、ほんの少し唇をゆがめただけだった。だけど、たしかに見た。
 混乱する思考の中、さらなる疑問が過ぎる。
 どうして、あのコ、笑ったんだろう。
「だって、いつかはみんな殺しあうんだっ」「私、死んじゃいたい」
 突如リフレインする安奈の言葉。ゾクリ、エリの背筋を何か冷たいものが駆け上がっていった。

 な……に。なに、この悪寒は。な、に?
「い」
 先に声が洩れた。ひどくしゃがれた声だった。
「いやぁ」
 次いで動いたのはエリの身体だった。いやいやと首を振りながらあとずさる。
「あぁあ……」
 視線を落とせば、赤黒く変色し膨張した吾川正子の死に顔が見える。血走った瞳、だらしなく開いた口元からは、血交じりの唾液と長く延びきった舌が出ている。
 その身体はいびつに歪んだ格好をしており、両腕が有りえない方向に向いていた。
「あああああ」
 今度は、自分の肩口のあたりを見た。震えながら左右、見た。
 何が見える? 何が、み、え、る?

 ほんとに、私はゲームに乗り気だった? 最初からやる気だった? 
 死にたくない。そんなことは最初から思っていた。そんなの、誰だって考えることだ。でも、実際にやるかやらないかは別。私は、いつどの瞬間からゲームに乗ろうと考えた? 私がゲームに乗ろうと思ったきっかけは何だった?
「だけどいつかはっ」
 そう、あれを聞いた瞬間からじゃないのか? 永井安奈のあの声を聞いた瞬間からじゃないのか?
「ああああああああああっ」
 次第に高く大きく上がっていく、エリの声。それはもう、悲鳴と呼んでもよいだろう。
 心臓が狂ったようにドラムを叩く。それなのに、全身から血の気が引いていくのを感じる。
「エ、エリ?」
 柚香の声につられて入り口のあたりに視線を戻すと、柚香の後ろに永井安奈の姿が見えた。
 安奈は恐怖に満ちた表情をしていた。柚香の腕をぎゅっと掴み、恐怖に耐えている。いや、耐えている振りをしている。

 何が、見えた?
 何が、み、え、た?
 出てた。横たわる吾川正子の身体から、見えない操り糸が出ていた。私の肩から、操り糸が出ていた。その糸は誰の手にある? 吾川を操ったのは誰? 
 ……私を操ったのは誰?

 ここで、やっと。やっと、恐怖がエリに追いついてきた。
 恐怖は紅く冷たい空気をまとっていた。エリの視界が真っ赤に染まり、身体には切れるような寒気が襲う。そして、耳元で何かが囁いた。ぞっとするような低い響きだった。
 お前は、あ、や、つ、ら、れ、た。
 まるで地震に襲われたかのように、エリの身体が大きく震え、波打つ。
 そして。あらん限りの声、あらん限りの力を振り絞り、エリは叫んだ。



<吾川正子死亡、残り15人/32人>

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