OBR1 −変化− 元版


062  2011年10月02日04時


<坂持国生>






「あなた……坂持、国生くん、ね」
 それは、国生が神戸の伯母の家に世話になってから半年ほどが経った、ある夏の日のことだった。
 六甲山の中腹に位置する墓地。
 焼け付くような太陽光、わんわんとこだまするセミ時雨、川田章吾の墓前に手をあわせ立ち上がろうとしたそのときに、背後から声をかけられたのだ。

 振り返ると、レース地の日傘をさした20代半ばの女が立っており、あいた手に小さな花束を持っていた。
 ふっくらとした頬に黒目勝ちな大きな瞳、おそらくは10は年の離れている大人を相手にこのような表現をしていいものか迷ったが、美しいというよりも可愛らしい、そんな女性だった。
 そして、気づく。
 その頬、ちょうど左眼の下のあたりにうっすらと何かの傷跡が残っていた。
 古傷。そんな言葉が頭によぎった。
 負ってからかなりの年月が過ぎ薄まったのであろう傷の跡、お化粧を後ほんの少し濃い目にすれば目につかなくなるであろう傷の跡。
 この人は誰だろうと思うよりも先に、「なぜ、この人は傷を隠そうとしないのだろう?」と思った。

 黒地のワンピースに身を包んだ彼女は、ゆったりとした口調で「坂持、国生くんね」とくり返した。
 そこで、分かった。
 どうして分かったのか、理由などまったく掴めなかったのだが、とにかく国生の直感が告げた。
「中川……典子、さん?」
 これに、彼女が戸惑い顔を見せた。
 ほんの数十秒のことだったのかも知れないが、国生にはその間がひどく長く感じられた。
 そして、彼女、中川典子 が小さく頷いた。



 それから日が陰るまでまでの数時間、墓地からほど近いカフェに中川典子……世間的には戸籍を買い取った別の女性を名乗っていると言っていた……と国生はいた。

 ずっとずっと、七原秋也と中川典子に会いたいと思っていた。
 父親が最後に担当したプログラムの生き残り、父親が殺されたプログラムの生き残り。記録によれば、父親を殺した川田章吾と彼らはプログラム中、行動を共にしていたという。
 訊きたいことは山ほどあったし、同時に、訊きたくても訊くことが出来ないことが山ほどあった。

 まず、アメリカ国に渡ってからのことを訊いた。
  父親が最後に受け持ったプログラムの顛末は人聞きしていたし、国生なりに調べてもいたので、七原秋也と中川典子の関係やその行動についてはある程度は把握していたが、彼らがその後どうしたかまでは知らなかった。
驚いたことに、中川典子はアメリカ国に一年の間しかいなかったらしい。
 鮫島学が調べ上げた通り、七原秋也と中川典子はアメリカ国のメディアや人権団体などに大東亜共和国で行われているプログラムの実態を訴えた。
 しかし、大きな反応はなかったという。
「当時、大東亜共和国は経済的に世界のトップを走っていて、力を持っていたからかもしれないし、単純に私たちの力不足だったのかもしれない」
 その頃のことを思い出したのか、彼女はそう言って肩を落とした。
 そして、七原秋也の死。
「私、シューヤの死ぬ所を見てないの。知らせが来て、病院に走って走って……案内されたのは霊安室だった」
 気持ちを落ち着けるためか、ここで中川典子はアイスコーヒーに口をつけたと記憶している。
 そして、その何気ない動作に艶っぽさを感じ、ドキリと心拍をあげた記憶も。
「シューヤ、地下鉄のホームで刺されて、血をいっぱい流して、それで、死んだの」
「犯人は? やっぱり反政府的なことをやってたから殺されたんですか?」
 ひどく無神経な質問だと思ったが、それでも訊かざるをえなかった。
 この国生の質問に、中川典子はふるふると首を振った。
「男に襲われてた女の子を助けようとしたんだって。それで返り討ちにあった。シューヤを刺した人もすぐに捕まったのよ。……それがね、馬鹿みたいな話なんだけど、普通の男の子なの。別れた恋人に復縁を迫ろうとしてたんだって。警察もそれなりに調べてくれたんだけど、裏なんてなかった。正真正銘、ただの痴話喧嘩だったの。だけど放っておいたら、その女の子が死んでいたのかしれない。馬鹿みたいなんだけど、ほんと馬鹿みたいなんだけど、シューヤらしい、最期だったと思う」

「でも、なんだか力が抜けちゃって、日本に帰ってきちゃった」
 ひどく空ろに聞こえた。

 その後、在米中も力を貸してくれていたと言う反政府活動をしている勢力に身を置き、活動を続けていたらしい。
 しかし、しばらくの時を置いてその勢力からも離れたという。
 彼女は買い取った戸籍の女になりすまし、今は大阪のオフィス街で普通に働いていると言った。
 その感情について多くは語らなかったが、迷い後悔し自戒を繰り返しこの十数年を過ごしてきたことが国生には分かった。

 中川典子という女性は決して強くはない、普通の、当たり前の人間だった。
 たった15でクラスメイトと殺し合い、そして生き残った。
 当然の感情として湧き上がる反政府心、しかし行動と思いを共にした七原秋也があっけなく死に、力を落とし挫折し、結局は普通の生活に戻った。
 そこに行き着くまでには、相当の紆余曲折があったのだろう。
「これでいいのか? みんな死んだのに、自分だけ普通の生活をしてていいのか?」
 そう思い続けてきたということが、彼女の言葉の端々から感じられた。

 また、目の下の傷がその象徴でもあった。
 それは、プログラム中につけられた傷だった。彼女が巻き込まれたプログラムでは、桐山和雄という生徒が多くのクラスメイトを葬ったということだ。
 その桐山和雄が仕掛けたトラップにかかり、傷ついたのだという。
 それから十数年の歳月を経、その間にいくらでも整形を施す機会があっただろうに、彼女はその傷を残していた。

 典子さんは、自分がプログラムに巻き込まれ生き残ったという証を、七原秋也も命を落とし本当の意味での最後の一人となったその証を、身体に刻み込んだままにしてきた。
 それは追われる身であったに違いない彼女にとって、とても危険なことだったはずなのに。
 ……それで、すべてが分かると思わないかい?


 そして、中川典子はずっと国生のことを見てきたと言った。
 だから、国生がプログラム担当官をしていた父親のことを嫌悪していることを知っていたし、香川時代には父親が受け持ったプログラムの生徒たちの墓に、神戸に来てからは川田章吾の墓に時おり花を捧げていることも知っていた。
「俺に話しかける危険性は考えなかったのですか?」
 おそらくは未だ政府に追われる身である彼女にそう訊くと、「だから声をかけるのに10年かかった」という答えが返ってき、そして「政府はそれほど私のことを気にしてないわ」という答えが返ってきた。

 また、彼女は驚いたとも言った。
「だって、あの坂持の子どもが、あの川田くんの住んでいた街にやってきたんだもの。因縁だとか運命だとか、そういったものってあるんだと思った」
 このとき国生は答えなかったが、「運命なんかじゃない」と心の中で思ったものだ。
 それは、国生が神戸にやってきたのは、そこが川田章吾が生まれ育った町だったから。
 もちろん、坂持の家で育つことに懸念し声をかけてくれた伯母が神戸に住んでいたことが、その基底にはある。
 しかし、それだけではない。
 その街が川田章吾の街だったから、父親を殺した川田章吾の生まれ育った街だったから、国生は神戸にやってきたのだ。

 彼女は言葉を続けた。
「ほんとはね、あなたに会うつもりなんてなかった。勇気をどうしても持てなかったし、会うべきじゃないとも思ってたから。でもね、あなたは川田くんの住んでた街にやってきた。だから、声をかける気になったの。……それでも半年かかったけどね」
 十数年の歳月が過ぎ、坂持の血統と川田章吾と中川典子七原秋也が交わった。
 人はそれを有りえない偶然と呼ぶのかもしれない、中川典子はそれを運命と呼ぶのかもしれない。けれど、例え言うのならばあえて言葉で表すのならば、それは「必然」だったのだ、国生はそう思った。


 それから約一年。こうしてプログラムに巻き込まれるまでの間に幾度か中川典子と会い、様々なことを話した。そこで、彼女がまた反政府活動に身を置きはじめていることも知った。
 やがて、国生は自分の気持ちに気がつく。
「俺は……典子さんのことが好きなんだな」
 思う。
 きっと、今の典子さんだから、俺は好きになったんだ。
 例え、一本気に迷いもなく反政府活動を続けた典子さんがいたとしても、そんな典子さんがいたとしても、俺はきっと好きにはなっていない。
 典子さんだから。迷って迷ってそして再び立ち上がった典子さんだから、俺は恋をしたんだ。


 そして、同時に湧き上がる感情。
「俺も、やりたい。プログラムを、この国を止めたい」
 そう言ったとき、中川典子は表情を曇らせた。やめた方がいいとも言った。
 しかし、国生は食い下がり、そしてその思いは彼女に届いた。
 いや、すでに届いていたのかもしれないし、もしかしたら、いつかは国生がそんなことを言い出すことを予期していたのかもしれない。
 香川にいた頃から見ていたのだ。国生が何を感じどんな行動を取ってきたのか、彼女は声をかける前から知っていたのだろうから。

「幸枝たち……私のクラスメイトたちのお墓や、川田くんのお墓に、お花、ありがとうね」
 中川典子はそう言うと、国生を抱きしめた。

 ……国生の心臓が、決して丈夫ではないその心臓が小さくジャンプした。








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