OBR1 −変化− 元版


006  2011年10月01日00時


<香川しのぶ> 


 一人の少女が下駄箱の横を足早に通り過ぎ、おそるおそる観音開きの扉を開けた。ショートカットの髪、上を向いた鼻先、立った頬骨。それは、香川しのぶ(新出) だった。
 制服のジャケットを無くしており、シャツの上に学校指定の白いベストを着ているだけの姿。睡眠ガスをまかれる前、行きのバスの中で彼女は上着を脱いでいた。おそらく、上着はバスの中に残されたままなのだろう。
 ベストのポケットには、小さなハートマークが刺繍されていた。
 これは、こんなことになる前、彼女の仲間うちで戯れに作った「友情の証」だった。
 彼女はテニス部で、佐藤君枝を中心とした女子体育会グループの一員だ。

 校舎の外には、月明かりの下、校庭が見え、校門の先に高木低木が入り混じった林が見えた。そして、しのぶよりも先に校庭に出た生谷高志、あるいは他の生徒も感じた潮の香りが彼女の鼻をくすぐった。
 ……海、見たいな。

 神戸5中は、神戸の海岸を臨む小高い丘の上にあって、気が向けば教室の窓から海を眺めることができた。
 陽光を反射しキラキラと輝く海面。沖合いを進む船影。教室の中でまでも緩やかに染める青い海の香り。
 テニス部のランニングでよく浜を走った。運動靴に砂が入ってじゃりじゃりする感触は好きではなかったし、そもそも砂地は走りにくくて嫌いだった。
 でも、海のそばを走るのは嫌いじゃなかった。教室から見る、ランニングをしながら見る、堤防に座って見る、浜の景色は好きだった。

 ほんとに殺し合いなんてものが始まるのか見当もつかないけど、もし死んじゃうのなら、海を見てからにしたいな。
 その穏やかな性格のおかげだろうか、しのぶは自分の死に、さほどの恐怖心や重みを感じていなかった。
 もちろん、他のクラスメイトのことは怖い。
 今も物陰から誰かが自分を狙っているような気がする。
 けど、そんなことって現実にあるのだろうか? クラスメイト同士で殺しあうだなんて。つい昨日まで一緒に笑いあっていた仲間を殺すだなんて。
 そりゃさ、みんなみんな仲良しってわけじゃない。君枝ちゃんは尾田美智子が嫌いみたいだし、私は重原早苗(新出)が苦手。でも、だからと言って、君枝ちゃんが尾田さんを殺すわけがないし、私が重原さんにやり返すわけもない。
 しのぶは、クラスメイトの重原早苗から金を巻き上げられていた時期があった。
 一年前、二年生の頃のことだ。
 不良グループにこそ属していないが、その頃の早苗は荒れた生活をしており、大人しいしのぶはその犠牲となっていた。
 その後、どういうわけか早苗は落ち着き、今では普通の生徒になっているのだが、それでもやはり恐ろしく、今もしのぶは彼女には極力近寄らないようにしていた。


 補整が足らない小石交じりの運動場をゆっくりとした足取りで歩く。先に出て行った生徒たちの姿は見えなかった。
 ユズ、エリ……、待っててくれなかったのか。
 同じテニス部で、出席番号も近い越智柚香(新出)と飯島エリ(新出)の顔を思い浮かべる。
 まぁ、仕方ないか、怖いものね。
 私は、待とう。
 しのぶは後から出て来る女子体育会グループの仲間、佐藤君枝や津山都を待とうと考えた。
 迷いはもちろんある。誰かと合流したらその誰かに殺される。そんな予感はする。だけど、一人でいるのはもっと怖かった。

 石作りの校門を抜け、分校の敷地の外へと出る。
 校門の先には三本の舗装されたコンクリ道が延びていた。そのうちの一本の先には、誰だか分からないが、足早に駆けていく生徒の遠い後姿も見える。……複数だ。
 あの子たちの後を追う? 
 複数で逃げているのだから、少なくとも安全だろう。
 でも。でも、そう。
 やっぱり……、君枝ちゃんだ。
 しのぶは、日頃親しくしていたクラスメイトのうち出順が自分と一番近い佐藤君枝のことを思い浮かべた。
 あの子たちの後を追ったら、もう君枝ちゃんと会えなくなる。

 君枝はバレー部のエースだっただけあって運動神経はよく、気も強かった。
 好き嫌いははっきりしており、気に入った生徒には気安く話し掛けるが、気に食わない生徒にはとことんきつく当たる。最近は、可愛らしい容貌からか男子に人気のある尾田美智子のことを嫌い、いっそ虐めに近いこともやっていた。
 大人しく気も弱いしのぶ自身が積極的に美智子虐めに参加することはなかったけれど、君枝と一緒になって嫌味を言うぐらいのことはやったことがある。
 そうしないと、グループに入れてもらえないような気がして怖かったからだ。
 ただ、君枝は外に厳しい分、仲間内には優しかった。
 しのぶから金を巻き上げていた重原早苗が無心してこなくなったのは、一時は荒れていた彼女自身が落ち着いてきたこともあったが、君枝が守ってくれたことも大きかったように思う。
 しのぶは、君枝と友達になれたことを感謝し、嬉しく感じたものだ。
 これからどうなるにしろ、その君枝とは会っておきたかった。

 校門の前の3メートルほどの幅のコンクリ道の向こうは、うっそうと茂る雑木林になっていた。
 とりあえずは、ここに隠れることにし、しのぶは、あたりを見渡してから、おそるおそる茂みの中に足を踏み入れた。
 と、目の前に一人の生徒の影が現れた。
「ひゃっ」
 飛び上がった心臓を抑え付けながら、木々の暗がりに目を凝らす。たっていたのは、不良グループの「パシリ」としてクラスでも軽く見られている木田ミノル だった。ぶるぶると胴震いをしている。
 ああ、なんだ……、木田くん、楠くんを待ってるんだ。
 しのぶは、日頃からミノルに親近感を持っていた。
 ミノルはクラスから軽く観られていたが、彼女自身が佐藤君枝に守られているという意識を持っていたからだろう。どこか自分と似た存在として、しのぶはミノルのことを捉えていた。

 ここにいたのが、楠悠一郎だったら。不良グループのリーダーとして恐れられている悠一郎だったら、しのぶは踵を返し駆け出していた。
 だけど、実際にいたのは木田ミノルだった。
 自分と同じように気の弱いミノルが、いくらなんでもいきなり襲ってくることはない。
 そう、彼女は思ってしまったのだ。
 だが、焼け付くような深い胸の痛みとともに、それが間違いだったとしのぶは気づくことになる。
「えっ」
 疑問符を零した後、ゆっくりと首を曲げ、胸元を見る。そこには、太い鉄串のようなものが刺さっていた。その先、ミノルが震える手で鉄串を握っている。
 しのぶとあまり変らない中背、長めの前髪、にきびをつぶした痕の目立つほほ。いつもは卑屈な笑みを浮かべている口元はひきつっている。
 そして、血走った目。
 湧き出る疑問。
 木田くん、なんで、そんな目をしているの? えっ? これ、なに? 熱い。胸元が熱い、何かが、熱い何か流れ出てる。血? えっ、何で?

 ここで、やっと現実が彼女に追いついてきた。
 プログラム。たった一人、生き残れる。殺さなきゃ。友達でも何でも殺さなきゃ。でないと。でないと。でないと、私、家に帰れない。君枝ちゃんも、ユズも。エリ、も、重原早苗も。
 友達も、私につらくあたったあの子も。みんなみんな殺さなきゃ……。
 ぐるぐると回る視界。
 足元から順に力が抜けた。ぐらり。身体が傾ぐ(かしぐ)。
 死ぬ? 私、死ぬの? なんで? こんなにあっけなく? 君枝ちゃん、ユズ、エリ……。
「や、だ」
 声が出た。「やだ、私、死にたくない……」
 どうと音を立て、しのぶはあお向けに倒れた。

 そして、彼女がこのプログラムにおける最初の死亡者となった。



<香川しのぶ死亡、残り31人/32人>


<越智柚香>


 北の集落へと向う農道を足早に進んでいた越智柚香 は、ふっと立ち止まった。
 分校の敷地の近くを囲んでいた雑木林はすでになくなっており、あたりには田畑が広がっている。田には月明かりを浴びる案山子(かかし)が立ち、こんな時でなければ、のどかな光景に感じることが出来ただろう。
「どうしたの?」
 後ろを歩いていた飯島エリ が声をかけてくる。長い髪は振り乱れており、その表情には濃い恐怖感が張り付いていた。
 エリの隣りには喘息持ちで体の弱い吾川正子 がいる。彼女も青ざめ不安げだ。

「ううん、なんでも、ない」
 エリや正子に負けず劣らず青ざめた顔で柚香は返す。
 理由は分からない。分からないけれど、何か大切なものを失ったような気がしたのだ。歩きながら、ジャケットのボタンを外し、その下に着込んでいるベストの胸ポケットを見る。
 月明かり、白いベストのポケットに刺繍された小さなハートマーク。この刺繍をやってくれたのは、同じテニス部のしのぶだった。

 怖くて怖くて待つことが出来なかったけど、しのぶは彼女の大切な仲間だった。出順も一人間に挟んだだけ。ほんの少し待てば、しのぶと合流することは出来た。
 大人しい性格で、部活の試合で勝ち進む闘争心にさえ欠ける子だ。あの子が、このプログラムで勝ち残れるとは思えない。誰か、誰かが守ってあげなくてはいけない子、だ。
 なのに、私、彼女を待たなかったんだ……。
 柚香は死への恐怖心と戦いながら、しのぶを待たなかったことを深く後悔していた。しかし、これから引き返し、しのぶを見つけ合流するような勇気はとても持てそうにない。

 と、ここで柚香は佐藤君枝のことを思い出した。
 しのぶはきっと君枝ちゃんを待つはずだ。じゃ、大丈夫、よね。しのぶは無事よ、ね。
 君枝ちゃんなら、頼りになる。君枝ちゃんなら、しのぶを守ってくれる。それに、その後から都もスタートする。
 大丈夫。大丈夫。
 どこかで、結局、私たち、死んじゃうのかもしれないけど。
 でも、それって、今すぐじゃ、ないよね。もっともっと先のことだよね? 私が死ぬのも、しのぶが死ぬのも、もっともっと先のことだよね?

 柚香は心優しい少女だった。自らの死に脅えながらも、仲間の心配をし、その安否を案じた。その早過ぎない死を願った。
 しかし、彼女がしのぶの死を知るのはこれより数時間後、午前6時の定時放送のことである。



<残り31人/32人>


□□  バトル×2 1TOP ご意見ご感想 更新お知らせ登録