OBR1 −変化− 元版


059  2011年10月02日03時


<木沢希美>


「木沢、木沢」
 誰かの声がする。
 木沢希美が目を覚ますと、そこには野崎一也の心配そうな顔があった。
「あ……」
 声を出そうとしたら、全身が痛み、軽く悲鳴を上げる。
 小柄な体躯、ふっくらとした頬、肩までの黒髪を首筋のところで左右に分け結んだ髪型。いつもかけている丸縁の眼鏡はどこかに飛んでしまっている。
 ざざざと水が流れる音がした。
「こ、ここは?」
「河原」
 一也の背後に、月明かりに照らされた川が見えた。ごつごつとした大小の岩から、ここが上流であることが分かる。
 
 見上げると、希美の背後に切り立った崖が見えた。
 岩肌で、30メートルほどの高さ。その所々からでたらめな方向に木々が伸びていた。木々の枝葉の隙間から見えるのは、星に覆われた夜空だ。
 崖下という言葉が頭をよぎる。
「ああ……」
 状況を把握する。
「落ちた、んだな」
 説明せずとも一也は理解したようだった。
 龍二に襲われたとき、野崎一也が囮(おとり)になり二人を逃してくれた。
 希美と中村靖史は、はぐれないよう手を繋ぎ、藪の中を走った。
 やがて、木々の隙間に一際明るくなった場所を見つけ、そこに駆け込んだのだが、その瞬間二人の足は空を切り、そのまま転落してしまった。
 茂みの間にあいた空間だと思っての行動だったのだが、実際には崖の入り端だったのだ。
 
「中村くん……は?」
 訊くと、「水を汲みにいってくれてる」と返って来た。
 気がつけば、身体が大きな葉に覆われている。知識のない希美には種類が分からないが、葉振りの大きな草を幾重にもかけてあるのだ。
「中村が、藤谷とかに見つからないように、被せてくれたみたいだよ」
 希美の思考を読んだのか、一也が言葉を落とす。
 
 
 ふっと、靖史のことを思う。
 希美が靖史のことを好きになったきっかけは、一枚の写真パネルだった。
 二年の文化祭、何の気なしに写真部の展示ブースに入ってみたら、その写真が目に飛び込んできた。
 被写体は、4,5歳の男の子だった。写真のほぼ全面がその男の子の上半身で、満面の笑みを浮かべ、両手を前に差し出すように写っていた。
 その笑顔が、とても幸せそうで。暖かくて。
 見てる希美も幸せな気分になれた。
 そのときは、それだけ。ただなんとなく、「中村靖史」という名前を気にとめる程度で終わった。

 やがて三年生に進級してみたら、靖史と同じクラスになっていた。
 学年始めの日、クラス毎の名簿に靖史の名前を見つけたときのことを、希美は今も忘れていない。
 あの写真を見たときのように、胸がほっこりと暖かくなり、そして、靖史のことを好きだと感じた。
 靖史のことは何も知らない。顔も知らないし、どんな性格なのかもしらない。知っているのは、靖史が暖かい写真を取れる人だということだけだった。
 だけど、好きだと感じた。
 その後は、恐ろしいぐらいにスムーズに事は運んだ。
 大人しい希美にしては積極的に話し掛け(友人の野本姫子らに炊きつけられた感もあったが)、そして、「告白」。
 放課後、夕暮れの校舎。ストレートに「好きです」と言った。
 靖史は一瞬キョトンとした顔を見せ、ぽそりと「そ、か」とだけ返してきた。
 これが彼のOKサインで、その日から希美は靖史と登下校するようになり、休日には一緒に遊びに出るようになった。

 靖史との付き合いは、体温の低いものだった。
 手を繋ぎキスはするが、それ以上はない。
 グループの中では経験豊富な野本姫子(彼女は、大学生の彼や、同じクラスの三井田政信と「そういうこと」になっていた)は、呆れ顔で「中村って、まだまだガキなのね」なんて言っていた。
 だけど、希美自身は実際の所、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 どちらかと言えば保守的な彼女にとって、このままごとのような恋愛は、それなりに心地よいものだったのだ。

 その一方でやはり、不満も感じていた。
 深い身体の関係になれないことではない。そんなことは、それぞれのスピードで進めばいい。
 不満だったのは、靖史があまり気持ちを見せてくれないことだった。
 野崎一也に、中村靖史を「気持ちの見えない人だった」と言ったが、それは本当のことだった。
 靖史には好き嫌いがなく、何を食べても美味そうにしているし、何をしても楽しそうにしていた。希美に何か要求してくることもなければ、不満をぶつけてくることもない。
 彼から「好き」だと言われたことも、一度もなかった。
 また、靖史は人物写真を撮ることが好きだったけれど、一度も希美の写真を撮ってくれなかった。
 おそらくは、靖史は恋愛よりも写真が好きなのだろう。女の子と一緒にいるよりも、友達とわいわいやっている方が楽しいのだろう。

 恋人同士って、もっと距離の近いものなんじゃないかなぁ。
 そんなことを考えつつも、希美も靖史のペースに合わせていた。不満は感じても、大人しい性質の希美には、その気持ちをぶちまけることができなかった。
 気持ちを見せないのは、お互い様だったのかもしれない。
 二人は、互いのことを、「中村くん」「木沢」と名字で呼ぶ。
 些細なことだけど、二人の距離を表しているように、希美は思う。



「近寄りたかったな」
 見上げた夜空に、言う。
「えっ」
「中村くん、気持ちの見えない人だったから。私もそういうの苦手だし。なんか、遠かった」
 そういえば数時間前にも似たような話をしたな、と思った。
「遠い、ままだったな」
 次第に、意識が薄れていく。唇を噛み、耐える。
 水を汲みに行った彼が帰ってくるまで、生きてなくちゃ。
 落ちたときに方々の骨が折れたようだった。崖の高さを思えば、即死しなかっただけ奇跡だろう。おそらくは、岩肌から伸びた木々が途中クッションしてくれたのだ。
 しかし、どこか重要な器官を損ねたようだった。
 ……ああ、死ぬんだ。
 迫る死を感じた。

「もしかしたら、中村くん、私のことなんて……」
 好きでもなんでもなかったんじゃ。口には出せなかった。
 これに、「違う、よ」強い口調で一也が返してくる。
 ごくり、唾液を喉に落とす音がした。そして、「中村、木沢が寝てるときに、木沢のことが好きだって言ってたよ」続く。
 一瞬、言葉が出なかった。傷のためではなく、感情のために。
「ほんとに?」
「ああ」
「そ、か」
 遅れて、「そ、か」は彼のOKサインだったことを思い出す。現金なもので、なんだか幸せな気持ちになれた。

 彼の顔を思い浮かべる。丸顔に、小振りの鼻、きゅっとあがった眉。引き締まった口元。
「ひどい、な」
「え?」
「……私、一度も、面と向かって……言ってもらったこ……とないのに」
 口を動かすことすら億劫になってきていたが、くすくすと笑みを漏らすことは出来た。
「下の名前すら……呼んでもらったこと、ないのに」
「じゃぁ、中村が戻ったら言ってもらおう」
 一也の声は掠れていた。声に涙が混じっている。彼が身体を震わせているのが分かった。

 気持ちの見えない人だった。
 だけど、ないわけじゃなかった。……そうなんだ。彼も私のこと、好きでいてくれたんだ。
 気持ちが見えない。だからと言って、気持ちがないわけなんかじゃ、ない。
 希美は簡単な事実を今この瞬間、知った。極めて簡単な事実を拾い上げていた。
 だけど。
 希美は思う。
 だけど、気持ちは見せ合わなきゃ、伝わらない。もっと、早く、気持ちを見せ合っていたら。こんなにもシャイな中村くんにかわってでも、私が先に気持ちを見せていたら。
 そしたら、もっと早くに近づけていたのに。
 どこかよそよそしい関係だった二人の距離。近くて遠い、くっついているようで離れていた二人の気持ち。
 もっと、早くに。もっと早くに、言えばよかった。
 写真を撮って欲しかった。好きだって言って欲しかった。喧嘩なんてこともやってみたかった。
 思ったときに、素直に伝えておけば、よかった。

 早く、早く。早く、戻ってきて。
 中村くんが戻ってきたら、下の名前で呼んでもらおう。私も彼を下の名前で呼ぼう。……靖史。靖史くん。……なんだか照れる。
 視界が霞んできた。
 早く、早く。
 早く、早く……。



<野崎一也>


 希美の瞼が穏やかに閉じ、彼女は死を迎えた。
 肩を震わせていると、「死んだ、か」物陰から、羽村京子が出てきた。事のいきさつはすでに話してある。
「似合いの二人だった、な」
 京子が続ける。
 ……そういえば、羽村は楠と付き合っていたな。一也はふっと思う。彼女はいま、楠のことを考えているのだろうか。と。

 希美の身体を覆う草葉にそっと振れ、「見つからないように、隠したんだな」京子が呟く。
「ああ……」
「最後の力を振り絞って」
「ああ……」
 中村靖史の亡骸は、川を挟んだ反対側の川原にあった。
 希美の身体を隠し、そのあと、川を渡ったのだ。藤谷龍二に撃たれて深手だったのに。崖から落ちて、あちこちの骨も折っていただろうに。
 自分の亡骸が藤谷龍二に見つかったとしても、希美の安全を確保できるように。

 水に濡れた足跡(身体をひきずるように進んだらしく、蛇行する線状だったが)から、彼が川を渡ったことが分かり、その先に希美を見つけることが出来たが、時間が経てば跡は消えていただろう。
「偉かったな」
「う……ん?」
「木沢、きっと、中村がまだ生きていると思ったまま、死ねたよ」
 無言を返す。
「偉かったな。彼女、幸せなまま、死ねたよ」
 
 何も答えることが出来なかった。代わりに、一也から嗚咽が漏れた。



<中村靖史、木沢希美死亡。残り16人/32人>


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バトル×2
木沢希美
吹奏楽部。中村靖史と交際していた。野崎一也、中村靖史と行動を共にしていた。