OBR1 −変化− 元版


030  2011年10月01日19時


<黒木優子> 


 ここで、左の棚に置かれている『あるもの』に優子は気が付いた。
 閃く何か。そっとその『あるもの』手を伸ばす。この間に撃たれれば、待つものは死のみだったのだが、政信は撃ってこなかった。……政信は優子の手にしたものを見て、怪訝な表情を浮かべている。
 すうう。
 一度、大きく深呼吸をする。これで身体の震えが若干、あくまでも若干、止まった。

 なお震える手でそのキャップを外す。
「な、に、やってんだ?」
 眉を寄せ、政信が訊く。優子が手に持っていたのは、洗剤の入ったプラチックボトルだった。
「殺す?」
 出来る限り余裕ぶって。お願い私の顔、うまく表情を作って! 
 優子は必死で自分の表情をコントールしようとした。
「やってみな……よ。でも、只では死なないよ」
 政信の表情が変った。走る困惑。

 よーし、あいつだって人間だ。このプログラムの中でも、少しばかり変なゆるいところがあるけど、でもやっぱり死に脅える、私と同じ普通の人間だ。
 ……うまく、いく。きっと、うまくいく。
優子は強張る身体に叱咤を入れながら、言葉をつむいだ。
「ねぇ、青酸ガスって知ってる?」
 ああ、唇の端が震える。だめ、こんなじゃ、だめ。もっと。そう、もっと余裕ぶらなきゃ。
「はぁ?」
「青酸、ガス」
「青酸カリの親戚みたいなもんか」
 バカ正直に政信が答える。やった、こいつの「ゆるさ」が逆にいい目を引いた。
 優子は思った。
 普通なら会話もなく問答無用に撃ち殺されていたはずだ。それが、この交渉にまで持ち込めれた。……それはきっと、三井田のゆるさのおかげだ。

 大丈夫。うまく行く。きっとうまく行く。
 舌先で唇をぺロリと舐める。カラカラに喉が渇いていた。
「そう、猛毒ガスね。じゃ、塩化ユリウムは?」
 政信は沈黙を返した。
「これも猛毒」
 ここからだ。
 もう一度深く息を吸う。三井田が持ったショットガンがいつ火を吹くか分からない。いつ、殺されるか、分からない。
 そっと額に滲んだ汗を拭う。
「あんた、さっき、化学肥料を床にまいたでしょ。ショットガンで撃って床にまいたでしょ」
「それ……が、どーした?」
 政信の視線が一瞬、床に落ちる。
 床に張られた木板には、ショットガンで打ち落とされた化学肥料の袋が散乱していた。ほとんどの袋が破れてしまっており、床は白い化学肥料でいっぱいだ。
「この肥料、正式には肥料用尿素っていうの。ほら、袋に書いてある」
 銃撃を免れた肥料の袋にはたしかにそう書いてあった。
 もう少し、もう少し、話させて。どうか短気を起こさないで。
 祈るように優子は続ける。
「で、私が持っているのが、洗剤。塩素系よ。撃ってみなよ。そしたら、私、この洗剤をばらまいてやる」
 政信が唾液を喉に通す音が聞こえた。
 その表情には緊張感が見え、先ほどまでの「ゆるさ」が影をひそめつつあった(なくならないのがすごいよ、あんた)。

「化学反応。科学の時間に習ったわよね。混ざり合うと反応が起きて、他の物質が発生する。この肥料と洗剤に含まれる希塩酸が反応すると、塩化ユリウムが発生するの」
 ごくり。今度は優子が唾液を喉に落とした。
 自分の胸の鼓動が聞こえる。
 どうだ? 交渉は、私の交渉は上手く行っているのか?
「毒ガスよ。あたし、死ぬでしょうね。だけど、あんたも道づれよ」
 すうう。大きく息を吸い、政信をきっと睨みつける。
 そして、「死ぬときは、一緒よ!」優子は意図的に声を荒げた。その迫力に押されて、政信が一歩後ずさった。

 さらに、ここからが山だった。
「さ、どうするの? 私を殺すの? ……やりたきゃやりな。私、あんたの撃った銃で死ぬかもしれない。毒ガスを吸って死ぬかもしれない」
 笑え。
 私の顔、笑え。もっと自然に。もっと余裕を持って。
「だけど、そのとき、あんたも死ぬのよ」
 一瞬、政信の表情に恐怖感が見えた。
 よし、こいつ死に現実味を感じた。さぁ、どうでる? こいつ、どう出て来る? 
 焼けつくような緊張感。
「嘘……、つくなよ。なんで、お前がそんなこと知ってるんだよ」
 もっともな疑問だ。
「知らないの? 私のパパ、高校の化学の先生なのよ。だから、私、化学得意なの」


 ここで、すっと場の空気が変った。
 政信が舌打ちをし、ショットガンを優子に差し向けたまま後ろ手で農機具倉庫のカギを開ける。軋んだ音を立ててドアが開いた。
 優子は、自身の心臓が跳ね上がる音を聞いた。
 しまった!
 逃げ場を確保されて撃ってこられたら、ダメだ。撃った後、すぐに逃げ出す気になられたら、ダメだ。……失敗か? 私、死ぬのか?
 それでもなお、優子は言葉を紡いだ。生き残るために。
「で、出て行って、表で待ってよう、私が出て来るのを待とう、なんて考えないでよ。……分かってるでしょ? 私、重原を殺すのに相当数、弾を撃ったわ。……三井田も、結構な数、撃ったわね。その音を聞いて、誰か他にやる気なヤツが近くまで来ているかもよ」
 台詞を落としてから、言い過ぎか? と、背筋に冷たいものが走る。


 しかし、ここで、「やるねぇ」幾分緊張感を滲ませながらも、やはり間延びしたゆるやかな口調で政信が息をついた。
「ほんとすげぇわ、お前。完敗。負けたよ。かーんぱい」
 うまく……いった?
 いや、まだ油断はできない。
 緊張感を解かない優子を見て、政信はニヤリと笑う。そして「まーた、どっかで会えるかもなぁ」突然こんなことを言い出した。「お互い、死ななければ、他の誰かに殺されなければ、きっと、またどこかで会えるだろうなぁ」
 何がいいたいんだ?
 優子は戸惑った。
「そしたら、もう一度、真剣勝負しようーぜ」
「なっ……」
「あーあ、ほんっと、いい女だわ、お前」
 ど、どういたしましまして……。わたしも、あんたの顔好みだけど……さ。
 半ば呆れながら、優子は心の中で政信の弁に返していた。

 いささか政信に毒気を抜かれた感じで、優子は息をつく。


「プログラムに巻き込まれる前にくどいときゃ良かったなぁー。惜しいことしたわ、ほんと」
 何を……。
 優子が返答に困っていると、ヒヒャハッ、得意の笑みを残し、政信は踵を返し走り出した。いつのまにか、外はすっかり闇に包まれており、月明かりにディパックを背負った政信の長身が映えた。
 開かれた扉の向こう遠ざかる、雑木林の中に消えていく政信の背中。

 ヒラヒラと揺れているのは、地図が入ったパスケースか。
 しばらくの空白の後、優子は力なく座り込んだ。抜けた腰を引きずって農機具倉庫の入り口まで行き扉をしっかりと施錠をし、拾い上げた上着を羽織る。
 そして、優子は笑い出した。始めは震えとともに。しだいに歓喜の声で。
 私、何て言ったっけ? 化学が得意? 父親が化学の先生? ……うちの父ちゃんは、普通のサラリーマンだよっ。
 塩化……?  もう、名前も忘れた。
 猛毒? 知らないね。何が発生するかなんて。
 (ちなみに尿素肥料に塩酸で塩化アンモニウムが発生する。煙は立つが、少なくとも「猛毒」ではない)

 分からない。ほんとうに私の「交渉」が上手くいって、この結果があるかどうかは分からない。あんな穴だらけ、少し考えれば嘘と分かる交渉。
 だけど、私、生きている。
 銃を奪われてしまったけれど、相手を殺すことは出来なかったけれど、なんとなく結局は負けたような気がしないでもないけれど。
 だけど、私、生きてる。……私、生きている!
 理由なんてどうでもいい。
 だって、私、まだ生きているんだから!!
「くっ」
 優子の肩が震えた。
 農機具倉庫に心からの笑い声が響く。歓喜の声だった。
 この時ばかりは、他の選手の気配に注意を払わなかった。ただただ思うがまま、優子は歓喜の声を上げ続けた。



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